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건빵이랑 놀자
19. 法令誅罰日益刻深, 群臣人人自危, 欲畔者衆. 又作阿房之宮, 治直[道]ㆍ馳道, 賦斂愈重, 戍傜無已. 於是楚戍卒陳勝ㆍ吳廣等乃作亂, 起於山東, 傑俊相立, 自置爲侯王, 叛秦, 兵至鴻門而卻. 李斯數欲請閒諫, 二世不許. 而二世責問李斯曰: “吾有私議而有所聞於韓子也, 曰: “堯之有天下也, 堂高三尺, 采椽不斲, 茅茨不翦, 雖逆旅之宿不勤於此矣. 冬日鹿裘, 夏日葛衣, 粢糲之食, 藜藿之羹, 飯土匭, 啜土鉶, 雖監門之養不觳於此矣. 禹鑿龍門, 通大夏, 疏九河, 曲九防, 決渟水致之海, 而股無胈, 脛無毛, 手足胼胝, 面目黎黒, 遂以死於外, 葬於會稽, 臣虜之勞不烈於此矣”.
4. 계포의 의심을 풀고서 명성을 드날린 조구생 楚人曹丘生, 辯士, 數招權, 顧金錢. 事貴人趙同等, 與竇長君善. 季布聞之, 寄書諫竇長君曰: “吾聞曹丘生非長者, 勿與通.” 及曹丘生歸, 欲得書請季布. 竇長君曰: “季將軍不說足下, 足下無往.” 固請書, 遂行. 使人先發書, 季布果大怒, 待曹丘. 曹丘至, 即揖季布曰: “楚人諺曰: ‘得黃金百斤, 不如得季布一諾.’ 足下何以得此聲於梁ㆍ楚間哉? 且僕楚人, 足下亦楚人也. 僕遊揚足下之名於天下, 顧不重邪? 何足下距僕之深也!” 季布迺大說, 引入, 留數月, 爲上客, 厚送之. 季布名所以益聞者, 曹丘揚之也. 해석 楚人曹丘生, 辯士, 초나라 사람인 주구생은 말 잘하는 사람으로 數招權, 顧金錢. 자주 권세가를 불러 금과 돈에만 신경을 썼다. 事貴人趙同等, 與竇長君善. 귀인 조동 등을 섬..
8. 方提趣湯, 布顧曰: “願一言而死.” 上曰: “何言?” 布曰: “方上之困於彭城, 敗滎陽ㆍ成皐閒, 項王所以(遂不能[遂]西, 徒以彭王居梁地, 與漢合從苦楚也. 當是之時, 彭王一顧, 與楚則漢破, 與漢而楚破. 且垓下之會, 微彭王, 項氏不亡. 天下已定, 彭王剖符受封, 亦欲傳之萬世. 今陛下一徴兵於梁, 彭王病不行, 而陛下疑以爲反, 反形未見, 以苛小案誅滅之, 臣恐功臣人人自危也. 今彭王已死, 臣生不如死, 請就亨.” 於是上迺釋布罪, 拜爲都尉. 孝文時, 爲燕相, 至將軍. 布迺稱曰: “窮困不能辱身下志, 非人也: 富貴不能快意, 非賢也.” 於是嘗有德者厚報之, 有怨者必以法滅之. 吳(軍[楚]反時, 以軍功封兪侯, 複爲燕相. 燕齊之閒皆爲欒布立社, 號曰欒公社. 景帝中五年薨. 子賁嗣, 爲太常, 犠牲不如令, 國除.
7. 欒布 欒布者, 梁人也. 始梁王彭越爲家人時, 嘗與布遊. 窮困, 賃傭於齊, 爲酒人保. 數歲, 彭越去之巨野中爲盜, 而布爲人所略賣, 爲奴於燕. 爲其家主報仇, 燕將臧荼擧以爲都尉. 臧荼後爲燕王, 以布爲將. 及臧荼反, 漢擊燕, 虜布. 梁王彭越聞之, 迺言上, 請贖布以爲梁大夫. 使於齊, 未還, 漢召彭越, 責以謀反, 夷三族. 已而梟彭越頭於雒陽下, 詔曰: “有敢收視者, 輒捕之.” 布從齊還, 奏事彭越頭下, 祠而哭之. 吏捕布以聞. 上召布, 罵曰: “若與彭越反邪? 吾禁人勿收, 若獨祠而哭之, 與越反明矣. 趣亨之.”
3. 太史公曰: 樗里子以骨肉重, 固其理, 而秦人稱其智, 故頗采焉. 甘茂起下蔡閭閻, 顯名諸侯, 重彊齊楚. 甘羅年少, 然出一奇計, 聲稱後世. 雖非篤行之君子, 然亦戰國之策士也. 方秦之彊時, 天下尤趨謀詐哉.
4. 秦使向壽平宜陽, 而使樗里子ㆍ甘茂伐魏皮氏. 向壽者, 宣太後外族也, 而與昭王少相長, 故任用. 向壽如楚, 楚聞秦之貴向壽, 而厚事向壽. 向壽爲秦守宜陽, 將以伐韓. 韓公仲使蘇代謂向壽曰: “禽困覆車. 公破韓, 辱公仲, 公仲收國複事秦, 自以爲必可以封. 今公與楚解口地, 封小令尹以杜陽. 秦楚合, 複攻韓, 韓必亡. 韓亡, 公仲且躬率其私徒以閼於秦. 願公孰慮之也.” 向壽曰: “吾合秦楚非以當韓也, 子爲壽謁之公仲, 曰秦韓之交可合也.” 蘇代對曰: “願有謁於公. 人曰貴其所以貴者貴. 王之愛習公也, 不如公孫奭: 其智能公也, 不如甘茂. 今二人者皆不得親於秦事, 而公獨與王主斷於國者何? 彼有以失之也. 公孫奭黨於韓, 而甘茂黨於魏, 故王不信也. 今秦楚爭彊而公黨於楚, 是與公孫奭ㆍ甘茂同道也, 公何以異之? 人皆言楚之善變也, 而公必亡之, 是自爲責也..
3. 武王竟至周, 而卒於周. 其弟立, 爲昭王. 王母宣太後, 楚女也. 楚懷王怨前秦敗楚於丹陽而韓不救, 乃以兵圍韓雍氏. 韓使公仲侈告急於秦. 秦昭王新立, 太後楚人, 不肯救. 公仲因甘茂, 茂爲韓言於秦昭王曰: “公仲方有得秦救, 故敢扞楚也. 今雍氏圍, 秦師不下殽, 公仲且仰首而不朝, 公叔且以國南合於楚. 楚ㆍ韓爲一, 魏氏不敢不聽, 然則伐秦之形成矣. 不識坐而待伐孰與伐人之利?” 秦王曰: “善.” 乃下師於殽以救韓. 楚兵去.
1. 甘茂者, 下蔡人也. 事下蔡史擧先生, 學百家之術. 因張儀ㆍ樗里子而求見秦惠王. 王見而說之, 使將, 而佐魏章略定漢中地. 惠王卒, 武王立. 張儀ㆍ魏章去, 東之魏. 蜀侯煇ㆍ相壯反, 秦使甘茂定蜀. 還, 而以甘茂爲左丞相, 以樗里子爲右丞相.
4. 昭王七年, 樗里子卒, 葬於渭南章台之東. 曰: “後百歲, 是當有天子之宮夾我墓.” 樗里子疾室在於昭王廟西渭南陰鄕樗里, 故俗謂之樗里子. 至漢興, 長樂宮在其東, 未央宮在其西, 武庫正直其墓. 秦人諺曰: “力則任鄙, 智則樗里.”
3. 昭王元年, 樗里子將伐蒲. 蒲守恐, 請胡衍. 胡衍爲蒲謂樗里子曰: “公之攻蒲, 爲秦乎? 爲魏乎? 爲魏則善矣, 爲秦則不爲賴矣. 夫衛之所以爲衛者, 以蒲也. 今伐蒲入於魏, 衛必折而從之. 魏亡西河之外而無以取者, 兵弱也. 今竝衛於魏, 魏必彊. 魏彊之日, 西河之外必危矣. 且秦王將觀公之事, 害秦而利魏, 王必罪公.” 樗里子曰: “柰何?” 胡衍曰: “公釋蒲勿攻, 臣試爲公入言之, 以德衛君.” 樗里子曰: “善.” 胡衍入蒲, 謂其守曰: “樗里子知蒲之病矣, 其言曰必拔蒲. 衍能令釋蒲勿攻.” 蒲守恐, 因再拜曰: “願以請.” 因效金三百斤, 曰: “秦兵苟退, 請必言子於衛君, 使子爲南面.” 故胡衍受金於蒲以自貴於衛. 於是遂解蒲而去. 還擊皮氏, 皮氏未降, 又去.
11. 영민하던 주왕이 주지육림에 빠지다 帝紂資辨捷疾, 聞見甚敏. 材力過人, 手格猛獸. 知足以距諫, 言足以飾非, 矜人臣以能, 高天下以聲, 以爲皆出己之下. 好酒淫樂, 嬖於婦人, 愛妲己, 妲己之言是從. 於是使師涓作新淫聲, 「北里之舞」ㆍ「靡靡之樂」. 厚賦稅以實鹿臺之錢, 而盈鉅橋之粟, 益收狗馬奇物, 充仞宮室. 益廣沙丘苑臺, 多取野獸蜚鳥置其中, 慢於鬼神. 大聚樂戱於沙丘, 以酒爲池, 縣肉爲林, 使男女裸相逐其閒, 爲長夜之飮. 百姓怨望而諸侯有畔者, 於是紂乃重刑辟, 有炮烙之法. 해석 帝紂資辨捷疾, 聞見甚敏. 주왕은 자질이 말을 잘하고 행동이 빨랐으며 견문이 매우 민첩했다. 材力過人, 手格猛獸. 재주와 힘이 남들을 넘어서 손으로 맹수를 가격할 수 있었다. 知足以距諫, 言足以飾非, 지혜로움은 간언을 끊어낼 만했고 말은 잘못..
15. 周武王崩, 武庚與管叔ㆍ蔡叔作亂, 成王命周公誅之, 而立微子於宋, 以續殷後焉. 太史公曰: 余以頌次契之事, 自成湯以來, 采於書詩. 契爲子姓, 其後分封, 以國爲姓, 有殷氏ㆍ來氏ㆍ宋氏ㆍ空桐氏ㆍ稚氏ㆍ 北殷氏ㆍ 目夷氏. 孔子曰, 殷路車爲善, 而色尙白.
14. 紂愈淫亂不止. 微子數諫不聽, 乃與大師ㆍ少師謀, 遂去. 比干曰: “爲人臣者, 不得不以死爭.” 迺强諫紂. 紂怒曰: “吾聞聖人心有七竅.” 剖比干, 觀其心. 箕子懼, 乃詳狂爲奴, 紂又囚之. 殷之大師ㆍ少師乃持其祭樂器奔周. 周武王於是遂率諸侯伐紂. 紂亦發兵距之牧野. 甲子日, 紂兵敗. 紂走入, 登鹿臺, 衣其寶玉衣, 赴火而死. 周武王遂斬紂頭, 縣之[大]白旗. 殺妲己. 釋箕子之囚, 封比干之墓, 表商容之閭. 封紂子武庚ㆍ祿父, 以續殷祀, 令修行盤庚之政. 殷民大說. 於是周武王爲天子. 其後世貶帝號, 號爲王. 而封殷後爲諸侯, 屬周.
13. 西伯歸, 乃陰修德行善, 諸侯多叛紂而往歸西伯. 西伯滋大, 紂由是稍失權重. 王子比干諫, 弗聽. 商容賢者, 百姓愛之, 紂廢之. 及西伯伐飢國, 滅之, 紂之臣祖伊聞之而咎周, 恐, 奔告紂曰: “天旣訖我殷命, 仮人元龜, 無敢知吉, 非先王不相我後人, 維王淫虐用自絶, 故天棄我, 不有安食, 不虞知天性, 不迪率典. 今我民罔不欲喪, 曰“天曷不降威, 大命胡不至” ? 今王其柰何?” 紂曰: “我生不有命在天乎!” 祖伊反, 曰: “紂不可諫矣.” 西伯旣卒, 周武王之東伐, 至盟津, 諸侯叛殷會周者八百. 諸侯皆曰: “紂可伐矣.” 武王曰: “爾未知天命.” 乃復歸.
12. 以西伯昌ㆍ九侯ㆍ鄂侯爲三公. 九侯有好女, 入之紂. 九侯女不憙淫, 紂怒, 殺之, 而醢九侯. 鄂侯爭之彊, 辨之疾, 幷脯鄂侯. 西伯昌聞之, 竊嘆. 崇侯虎知之, 以告紂, 紂囚西伯羑里. 西伯之臣閎夭之徒, 求美女奇物善馬以獻紂, 紂乃赦西伯. 西伯出而獻洛西之地, 以請除炮烙之刑. 紂乃許之, 賜弓矢斧鉞, 使得征伐, 爲西伯. 而用費中爲政. 費中善諛, 好利, 殷人弗親. 紂又用惡來. 惡來善毁讒, 諸侯以此益疏.
16. 太史公曰: 怨毒之於人甚矣哉! 王者尙不能行之於臣下, 況同列乎! 向令伍子胥從奢俱死, 何異螻蟻. 棄小義, 雪大恥, 名垂於後世, 悲夫! 方子胥窘於江上, 道乞食, 志豈嘗須臾忘郢邪? 故隱忍就功名, 非烈丈夫孰能致此哉? 白公如不自立爲君者, 其功謀亦不可勝道者哉!
12. 其後四年, 吳王將北伐齊, 越王句踐用子貢之謀, 乃率其衆以助吳, 而重寶以獻遺太宰嚭. 太宰嚭旣數受越賂, 其愛信越殊甚, 日夜爲言於吳王. 吳王信用嚭之計. 伍子胥諫曰: “夫越, 腹心之病, 今信其浮辭詐偽而貪齊. 破齊, 譬猶石田, 無所用之. 且盤庚之誥曰: “有顛越不恭, 劓殄滅之, 俾無遺育, 無使易種於茲邑.” 此商之所以興. 願王釋齊而先越: 若不然, 後將悔之無及.” 而吳王不聽, 使子胥於齊. 子胥臨行, 謂其子曰: “吾數諫王, 王不用, 吾今見吳之亡矣. 汝與吳俱亡, 無益也.” 乃屬其子於齊鮑牧, 而還報吳.
11. 其後五年, 而吳王聞齊景公死而大臣爭寵, 新君弱, 乃興師北伐齊. 伍子胥諫曰: “句踐食不重味, 弔死問疾, 且欲有所用之也. 此人不死, 必爲吳患. 今吳之有越, 猶人之有腹心疾也. 而王不先越而乃務齊, 不亦謬乎!” 吳王不聽, 伐齊, 大敗齊師於艾陵, 遂威鄒魯之君以歸. 益疏子胥之謀.
13. 권력에 따라 달라지는 서글픈 세태 太史公曰: “夫以汲ㆍ鄭之賢, 有勢則賓客十倍, 無勢則否, 況衆人乎! 下邽翟公有言, 始翟公爲廷尉, 賓客闐門: 及廢, 門外可設雀羅. 翟公複爲廷尉, 賓客欲往, 翟公乃大署其門曰: ‘一死一生, 乃知交情. 一貧一富, 乃知交態. 一貴一賤, 交情乃見.’ 汲ㆍ鄭亦云, 悲夫!” 해석 太史公曰: “夫以汲ㆍ鄭之賢, 태사공이 말했다. “일반적으로 급암과 정당시의 어짊으로도 有勢則賓客十倍, 無勢則否, 권세가 있으면 빈객이 10배나 되지만 권세가 없으면 그렇질 않으니 況衆人乎! 하물며 보통 사람들은 오죽할까. 下邽翟公有言, 하규의 적공이 말한 게 있으니 始翟公爲廷尉, 賓客闐門: 처음 적공이 정위가 되었을 적엔 빈객에 문에 가득찼는데 及廢, 門外可設雀羅. 관직에 물러나자 문밖에 참새 그물을 설..
11. 莊爲太史, 誡門下: “客至, 無貴賤無留門者.” 執賓主之禮, 以其貴下人. 莊廉, 又不治其産業, 仰奉賜以給諸公. 然其餽遺人, 不過算器食. 每朝, 候上之閒, 說未嘗不言天下之長者. 其推轂士及官屬丞史, 誠有味其言之也, 常引以爲賢於己. 未嘗名吏, 與官屬言, 若恐傷之. 聞人之善言, 進之上, 唯恐後. 山東士諸公以此翕然稱鄭莊.
10. 정당시(鄭當時) 鄭當時者, 字莊, 陳人也. 其先鄭君嘗爲項籍將: 籍死, 已而屬漢. 高祖令諸故項籍臣名籍, 鄭君獨不奉詔. 詔盡拜名籍者爲大夫, 而逐鄭君. 鄭君死孝文時. 鄭莊以任俠自喜, 脫張羽於厄, 聲聞梁楚之閒. 孝景時, 爲太子舍人. 每五日洗沐, 常置駅馬安諸郊, 存諸故人, 請謝賓客, 夜以繼日, 至其明旦, 常恐不遍. 莊好黃老之言, 其慕長者如恐不見. 年少官薄, 然其遊知交皆其大父行, 天下有名之士也. 武帝立, 莊稍遷爲魯中尉ㆍ濟南太守ㆍ江都相, 至九卿爲右內史. 以武安侯魏其時議, 貶秩爲詹事, 遷爲大農令.
9. 黯旣辭行, 過大行李息, 曰: “黯棄居郡, 不得與朝廷議也. 然禦史大夫張湯智足以拒諫, 詐足以飾非, 務巧佞之語, 辯數之辭, 非肯正爲天下言, 專阿主意. 主意所不欲, 因而毁之: 主意所欲, 因而譽之. 好興事, 舞文法, 內懷詐以禦主心, 外挾賊吏以爲威重. 公列九卿, 不早言之, 公與之俱受其僇矣.” 息畏湯, 終不敢言. 黯居郡如故治, 淮陽政淸. 後張湯果敗, 上聞黯與息言, 抵息罪. 令黯以諸侯相秩居淮陽. 七歲而卒. 卒後, 上以黯故, 官其弟汲仁至九卿, 子汲偃至諸侯相. 黯姑姊子司馬安亦少與黯爲太子洗馬. 安文深巧善宦, 官四至九卿, 以河南太守卒. 昆弟以安故, 同時至二千石者十人. 濮陽段宏始事蓋侯信, 信任宏, 宏亦再至九卿. 然衛人仕者皆嚴憚汲黯, 出其下.
15. 사귀었던 사람들 荊軻旣至燕, 愛燕之狗屠及善擊築者高漸離. 荊軻嗜酒, 日與狗屠及高漸離飮於燕市, 酒酣以往, 高漸離擊築, 荊軻和而歌於市中, 相樂也. 已而相泣, 旁若無人者. 荊軻雖遊於酒人乎, 然其爲人沈深好書, 其所遊諸侯, 盡與其賢豪長者相結. 其之燕, 燕之處士田光先生亦善待之, 知其非庸人也. 해석 荊軻旣至燕, 형가가 곧 연나라에 이르러 愛燕之狗屠及善擊築者高漸離. 연나라의 개를 도축하는 이와 축을 잘 타는 고점리와 친해졌다. 荊軻嗜酒, 日與狗屠及高漸離飮於燕市, 형가는 술을 즐겼는데 날마다 개를 도축하는 이와 고점리와 연나라 저자에서 마실 적에 酒酣以往, 高漸離擊築, 곤드레 만드레 되면 고점리는 축을 탔고 荊軻和而歌於市中, 相樂也. 형가는 화답하며 저자거리에서 노래하며 서로 즐거워했다. 已而相泣, 旁若無人者. 이..
14. 수가 틀어지면 미련없이 떠나다 荊軻嘗遊過楡次, 與蓋聶論劍, 蓋聶怒而目之. 荊軻出, 人或言複召荊卿. 蓋聶曰: “曩者吾與論劍有不稱者, 吾目之. 試往. 是宜去, 不敢留.” 使使往之主人, 荊卿則已駕而去楡次矣. 使者還報, 蓋聶曰: “固去也, 吾曩者目攝之!” 荊軻遊於邯鄲, 魯句踐與荊軻博, 爭道, 魯句踐怒而叱之, 荊軻嘿而逃去, 遂不複會. 해석 荊軻嘗遊過楡次, 與蓋聶論劍, 형가는 일찍이 유차를 지나다가 개섭과 검술을 논하니 蓋聶怒而目之. 개섭은 화를 내며 그를 노려봤다. 荊軻出, 人或言複召荊卿. 형가가 나가자 사람들 중 혹자가 다시 형경을 부르라고 했다. 蓋聶曰: “曩者吾與論劍有不稱者, 개섭이 말했다. “조금 전에 내가 함께 검술을 논했지만 알맞지 않은 게 있어 吾目之. 내가 그를 노려봤네. 試往. 是宜去, 不..
13. 등용되지 못한 채 헤매다 其後二百二十餘年, 秦有荊軻之事. 荊軻者, 衛人也. 其先乃齊人, 徙於衛, 衛人謂之慶卿. 而之燕, 燕人謂之荊卿. 荊卿好讀書擊劍, 以術說衛元君, 衛元君不用. 其後秦伐魏, 置東郡, 徙衛元君之支屬於野王. 해석 其後二百二十餘年, 秦有荊軻之事. 섭정(聶政)의 일이 있은 후 220년여 년 후에 진나라 형가의 일이 있었다. 荊軻者, 衛人也. 형가는 위나라 사람이다. 其先乃齊人, 徙於衛, 선조는 곧 제나라 사람으로 위나라로 이사를 가니 衛人謂之慶卿. 위나라 사람은 ‘경경(慶卿)’이라 불렀다. 而之燕, 燕人謂之荊卿. 연나라로 가니 연나라 사람들은 ‘형경(荊卿)’이라 불렀다. 荊卿好讀書擊劍, 以術說衛元君, 형경은 독서와 검술을 좋아해 위원군에게 유세하였지만 衛元君不用. 위원군은 등용하질 않았다..
26. 太史公曰: 世言荊軻, 其稱太子丹之命, “天雨粟, 馬生角” 也, 太過. 又言荊軻傷秦王, 皆非也. 始公孫季功ㆍ董生與夏無且遊, 具知其事, 爲餘道之如是. 自曹沫至荊軻五人, 此其義或成或不成, 然其立意較然, 不欺其志, 名垂後世, 豈妄也哉!
25. 고점리(高漸離) 其明年, 秦竝天下, 立號爲皇帝. 於是秦逐太子丹ㆍ荊軻之客, 皆亡. 高漸離變名姓爲人庸保, 匿作於宋子. 久之, 作苦, 聞其家堂上客擊築, 傍偟不能去. 每出言曰: “彼有善有不善.” 從者以告其主, 曰: “彼庸乃知音, 竊言是非.” 家丈人召使前擊築, 一坐稱善, 賜酒. 而高漸離念久隱畏約無窮時, 乃退, 出其裝匣中築與其善衣, 更容貌而前. 擧坐客皆驚, 下與抗禮, 以爲上客. 使擊築而歌, 客無不流涕而去者. 宋子傳客之, 聞於秦始皇. 秦始皇召見, 人有識者, 乃曰: “高漸離也.” 秦皇帝惜其善擊築, 重赦之, 乃矐其目. 使擊築, 未嘗不稱善. 稍益近之, 高漸離乃以鉛置築中, 複進得近, 擧築樸秦皇帝, 不中. 於是遂誅高漸離, 終身不複近諸侯之人. 魯句踐已聞荊軻之刺秦王, 私曰: “嗟乎, 惜哉其不講於刺劍之術也! 甚矣吾不知人也!..
24. 方急時, 不及召下兵, 以故荊軻乃逐秦王. 而卒惶急, 無以擊軻, 而以手共搏之. 是時侍醫夏無且以其所奉藥嚢提荊軻也. 秦王方環柱走, 卒惶急, 不知所爲, 左右乃曰: “王負劍!” 負劍, 遂拔以擊荊軻, 斷其左股. 荊軻廢, 乃引其匕首以擿秦王, 不中, 中桐柱. 秦王複擊軻, 軻被八創. 軻自知事不就, 倚柱而笑, 箕踞以罵曰: “事所以不成者, 以欲生劫之, 必得約契以報太子也.” 於是左右旣前殺軻, 秦王不怡者良久. 已而論功, 賞群臣及當坐者各有差, 而賜夏無且黃金二百溢, 曰: “無且愛我, 乃以藥嚢提荊軻也.” 於是秦王大怒, 益發兵詣趙, 詔王翦軍以伐燕. 十月而拔薊城. 燕王喜ㆍ太子丹等盡率其精兵東保於遼東. 秦將李信追擊燕王急, 代王嘉乃遺燕王喜書曰: “秦所以尤追燕急者, 以太子丹故也. 今王誠殺丹獻之秦王, 秦王必解, 而社稷幸得血食.” 其後李信追..
23. 遂至秦, 持千金之資幣物, 厚遺秦王寵臣中庶子蒙嘉. 嘉爲先言於秦王曰: “燕王誠振怖大王之威, 不敢擧兵以逆軍吏, 願擧國爲內臣, 比諸侯之列, 給貢職如郡縣, 而得奉守先王之宗廟. 恐懼不敢自陳, 謹斬樊於期之頭, 及獻燕督亢之地圖, 函封, 燕王拜送於庭, 使使以聞大王, 唯大王命之.” 秦王聞之, 大喜, 乃朝服, 設九賓, 見燕使者鹹陽宮. 荊軻奉樊於期頭函, 而秦舞陽奉地圖柙, 以次進. 至陛, 秦舞陽色變振恐, 群臣怪之. 荊軻顧笑舞陽, 前謝曰: “北蕃蠻夷之鄙人, 未嘗見天子, 故振慴. 願大王少假借之, 使得畢使於前.” 秦王謂軻曰: “取舞陽所持地圖.” 軻旣取圖奏之, 秦王發圖, 圖窮而匕首見. 因左手把秦王之袖, 而右手持匕首揕之. 未至身, 秦王驚, 自引而起, 袖絶. 拔劍, 劍長, 操其室. 時惶急, 劍堅, 故不可立拔. 荊軻逐秦王, 秦王環柱..
22. 於是太子予求天下之利匕首, 得趙人徐夫人匕首, 取之百金, 使工以藥焠之, 以試人, 血濡縷, 人無不立死者. 乃裝爲遣荊卿. 燕國有勇士秦舞陽, 年十三, 殺人, 人不敢忤視. 乃令秦舞陽爲副. 荊軻有所待, 欲與俱: 其人居遠未來, 而爲治行. 頃之, 未發, 太子遲之, 疑其改悔, 乃複請曰: “日已盡矣, 荊卿豈有意哉? 丹請得先遣秦舞陽.” 荊軻怒, 叱太子曰: “何太子之遣? 往而不返者, 豎子也! 且提一匕首入不測之彊秦, 僕所以留者, 待吾客與俱. 今太子遲之, 請辭決矣!” 遂發. 太子及賓客知其事者, 皆白衣冠以送之. 至易水之上, 旣祖, 取道, 高漸離擊築, 荊軻和而歌, 爲變徴之聲, 士皆垂淚涕泣. 又前而爲歌曰: “風蕭蕭兮易水寒, 壯士一去兮不複還!” 複爲羽聲慷慨, 士皆瞋目, 髮盡上指冠. 於是荊軻就車而去, 終已不顧.
21. 荊軻曰: “微太子言, 臣願謁之. 今行而毋信, 則秦未可親也. 夫樊將軍, 秦王購之金千斤, 邑萬家. 誠得樊將軍首與燕督亢之地圖, 奉獻秦王, 秦王必說見臣, 臣乃得有以報.” 太子曰: “樊將軍窮困來歸丹, 丹不忍以己之私而傷長者之意, 願足下更慮之!” 荊軻知太子不忍, 乃遂私見樊於期曰: “秦之遇將軍可謂深矣, 父母宗族皆爲戮沒. 今聞購將軍首金千斤, 邑萬家, 將奈何?” 於期仰天太息流涕曰: “於期每念之, 常痛於骨髄, 顧計不知所出耳!” 荊軻曰: “今有一言可以解燕國之患, 報將軍之仇者, 何如?” 於期乃前曰: “爲之奈何?” 荊軻曰: “願得將軍之首以獻秦王, 秦王必喜而見臣, 臣左手把其袖, 右手揕其匈, 然則將軍之仇報而燕見陵之愧除矣. 將軍豈有意乎?” 樊於期偏袒搤捥而進曰: “此臣之日夜切齒腐心也, 乃今得聞敎!” 遂自剄. 太子聞之, 馳往, 伏..
20. 燕小弱, 數困於兵, 今計擧國不足以當秦. 諸侯服秦, 莫敢合從. 丹之私計愚, 以爲誠得天下之勇士使於秦, 闚以重利: 秦王貪, 其勢必得所願矣. 誠得劫秦王, 使悉反諸侯侵地, 若曹沫之與齊桓公, 則大善矣: 則不可, 因而刺殺之. 彼秦大將擅兵於外而內有亂, 則君臣相疑, 以其閒諸侯得合從, 其破秦必矣. 此丹之上願, 而不知所委命, 唯荊卿留意焉.” 久之, 荊軻曰: “此國之大事也, 臣駑下, 恐不足任使.” 太子前頓首, 固請毋讓, 然後許諾. 於是尊荊卿爲上卿, 舍上舍. 太子日造門下, 供太牢具, 異物閒進, 車騎美女恣荊軻所欲, 以順適其意. 久之, 荊軻未有行意. 秦將王翦破趙, 虜趙王, 盡收入其地, 進兵北略地至燕南界. 太子丹恐懼, 乃請荊軻曰: “秦兵旦暮渡易水, 則雖欲長侍足下, 豈可得哉!”
19. 田光曰: “吾聞之, 長者爲行, 不使人疑之. 今太子告光曰: “所言者, 國之大事也, 願先生勿泄” , 是太子疑光也. 夫爲行而使人疑之, 非節俠也.” 欲自殺以激荊卿, 曰: “願足下急過太子, 言光已死, 明不言也.” 因遂自刎而死. 荊軻遂見太子, 言田光已死, 致光之言. 太子再拜而跪, 膝行流涕, 有頃而後言曰: “丹所以誡田先生毋言者, 欲以成大事之謀也. 今田先生以死明不言, 豈丹之心哉!” 荊軻坐定, 太子避席頓首曰: “田先生不知丹之不肖, 使得至前, 敢有所道, 此天之所以哀燕而不棄其孤也. 今秦有貪利之心, 而欲不可足也. 非盡天下之地, 臣海內之王者, 其意不厭. 今秦已虜韓王, 盡納其地. 又擧兵南伐楚, 北臨趙: 王翦將數十萬之衆距漳ㆍ鄴, 而李信出太原ㆍ雲中. 趙不能支秦, 必入臣, 入臣則禍至燕.
18. 太子逢迎, 卻行爲導, 跪而蔽席. 田光坐定, 左右無人, 太子避席而請曰: “燕秦不兩立, 願先生留意也.” 田光曰: “臣聞騏驥盛壯之時, 一日而馳千里: 至其衰老, 駑馬先之. 今太子聞光盛壯之時, 不知臣精已消亡矣. 雖然, 光不敢以圖國事, 所善荊卿可使也.” 太子曰: “願因先生得結交於荊卿, 可乎?” 田光曰: “敬諾.” 卽起, 趨出. 太子送至門, 戒曰: “丹所報, 先生所言者, 國之大事也, 願先生勿泄也!” 田光俛而笑曰: “諾.” 僂行見荊卿, 曰: “光與子相善, 燕國莫不知. 今太子聞光壯盛之時, 不知吾形已不逮也, 幸而敎之曰: “燕秦不兩立, 願先生留意也”. 光竊不自外, 言足下於太子也, 願足下過太子於宮.” 荊軻曰: “謹奉敎.”
17. 居有閒, 秦將樊於期得罪於秦王, 亡之燕, 太子受而舍之. 鞠武諫曰: “不可. 夫以秦王之暴而積怒於燕, 足爲寒心, 又況聞樊將軍之所在乎? 是謂“委肉當餓虎之蹊” 也, 禍必不振矣! 雖有管ㆍ晏, 不能爲之謀也. 願太子疾遣樊將軍入匈奴以滅口. 請西約三晉, 南連齊ㆍ楚, 北購於單於, 其後迺可圖也.” 太子曰: “太傅之計, 曠日彌久, 心惛然, 恐不能須臾. 且非獨於此也, 夫樊將軍窮困於天下, 歸身於丹, 丹終不以迫於彊秦而棄所哀憐之交, 置之匈奴, 是固丹命卒之時也. 願太傅更慮之.” 鞠武曰: “夫行危欲求安, 造禍而求福, 計淺而怨深, 連結一人之後交, 不顧國家之大害, 此所謂“資怨而助禍” 矣. 夫以鴻毛燎於爐炭之上, 必無事矣. 且以鵰鷙之秦, 行怨暴之怒, 豈足道哉! 燕有田光先生, 其爲人智深而勇沈, 可與謀.” 太子曰: “願因太傅而得交於田先生, ..
16. 居頃之, 會燕太子丹質秦亡歸燕. 燕太子丹者, 故嘗質於趙, 而秦王政生於趙, 其少時與丹驩. 及政立爲秦王, 而丹質於秦. 秦王之遇燕太子丹不善, 故丹怨而亡歸. 歸而求爲報秦王者, 國小, 力不能. 其後秦日出兵山東以伐齊ㆍ楚ㆍ三晉, 稍蠶食諸侯, 且至於燕, 燕君臣皆恐禍之至. 太子丹患之, 問其傅鞠武. 武對曰: “秦地遍天下, 威脅韓ㆍ魏ㆍ趙氏, 北有甘泉ㆍ谷口之固, 南有涇ㆍ渭之沃, 擅巴ㆍ漢之饒, 右隴ㆍ蜀之山, 左關ㆍ殽之險, 民衆而士厲, 兵革有餘. 意有所出, 則長城之南, 易水以北, 未有所定也. 奈何以見陵之怨, 欲批其逆鱗哉!” 丹曰: “然則何由?” 對曰: “請入圖之.”
초나라의 애국시인 굴원 屈原, 名平, 楚之同姓. 爲懷王左徒, 博聞强志, 明於治亂. 嫺於辭令, 王甚任之. 上官大夫與之同列, 爭寵而心害其能, 因讒之, 王怒而疏平. 後秦昭王欲與懷王會, 平曰: “秦虎狼之國, 不如無行.” 懷王稚子子蘭勸王行, 王死於秦. 長子頃襄王立, 以子蘭爲令尹. 子蘭使上官大夫, 短原於王, 王怒而遷之. 原至江濱, 被髮行吟澤畔, 顔色憔悴, 形容枯槁. 漁父問曰: “子非三閭大夫歟, 何故至此?” 原曰: “擧世混濁, 而我獨淸; 衆人皆醉, 而我獨醒, 是以見放.” 漁父曰: “夫聖人不凝滯於物, 而能與世推移. 擧世混濁, 何不隨其流而揚其波; 衆人皆醉, 何不餔其糟而啜其醨? 何故懷瑾握瑜, 而自令見放爲.” 原曰: “吾聞之, 新沐者必彈冠, 新浴者必振衣. 誰能以身之察察 受物之汶汶者乎? 寧赴湘流, 而葬乎江魚腹中耳, 又安能以皓..
18. 太史公曰: 餘讀離騒ㆍ天問ㆍ招魂ㆍ哀郢, 悲其志. 適長沙, 觀屈原所自沈淵, 未嘗不垂涕, 想見其爲人. 及見賈生弔之, 又怪屈原以彼其材, 遊諸侯, 何國不容, 而自令若是. 讀服烏賦, 同死生, 輕去就, 又爽然自失矣.
17. 後歲餘, 賈生徴見. 孝文帝方受釐, 坐宣室. 上因感鬼神事, 而問鬼神之本. 賈生因具道所以然之狀. 至夜半, 文帝前席. 旣罷, 曰: “吾久不見賈生, 自以爲過之, 今不及也.” 居頃之, 拜賈生爲梁懷王太傅. 梁懷王, 文帝之少子, 愛, 而好書, 故令賈生傅之. 文帝複封淮南厲王子四人皆爲列侯. 賈生諫, 以爲患之興自此起矣. 賈生數上疏, 言諸侯或連數郡, 非古之制, 可稍削之. 文帝不聽. 居數年, 懷王騎, 墮馬而死, 無後. 賈生自傷爲傅無狀, 哭泣歲餘, 亦死. 賈生之死時年三十三矣. 及孝文崩, 孝武皇帝立, 擧賈生之孫二人至郡守, 而賈嘉最好學, 世其家, 與餘通書. 至孝昭時, 列爲九卿.
16. 且夫天地爲鑪兮, 造化爲工: 陰陽爲炭兮, 萬物爲銅. 合散消息兮, 安有常則: 千變萬化兮, 未始有極. 忽然爲人兮, 何足控摶: 化爲異物兮, 又何足患! 小知自私兮, 賤彼貴我: 通人大觀兮, 物無不可. 貪夫徇財兮, 烈士徇名: 誇者死權兮, 品庶馮生. 述迫之徒兮, 或趨西東: 大人不曲兮, 億變齊同. 拘士繋俗兮, 攌如囚拘: 至人遺物兮, 獨與道俱. 衆人或或兮, 好惡積意: 眞人淡漠兮, 獨與道息. 釋知遺形兮, 超然自喪: 寥廓忽荒兮, 與道翶翔. 乘流則逝兮, 得坻則止: 縱軀委命兮, 不私與己. 其生若浮兮, 其死若休: 澹乎若深淵之靜, 氾乎若不繋之舟. 不以生故自寶兮, 養空而浮: 德人無累兮, 知命不憂. 細故粦兮, 何足以疑!
15. 萬物變化兮, 固無休息. 斡流而遷兮, 或推而還. 形氣転續兮, 變化而嬗. 沕穆無窮兮, 胡可勝言! 禍兮福所倚, 福兮禍所伏: 憂喜聚門兮, 吉凶同域. 彼吳彊大兮, 夫差以敗: 越棲會稽兮, 句踐霸世. 斯遊遂成兮, 卒被五刑: 傅說胥靡兮, 乃相武丁. 夫禍之與福兮, 何異糾纆. 命不可說兮, 孰知其極? 水激則旱兮, 矢激則遠. 萬物回薄兮, 振蕩相転. 雲蒸雨降兮, 錯繆相紛. 大專槃物兮, 坱軋無垠. 天不可與慮兮, 道不可與謀. 遲數有命兮, 惡識其時?
14. 賈生爲長沙王太傅三年, 有鴞飛入賈生舍, 止於坐隅. 楚人命鴞曰: “服”. 賈生旣以適居長沙, 長沙卑溼, 自以爲壽不得長, 傷悼之, 乃爲賦以自廣. 其辭曰: 單閼之歲兮, 四月孟夏, 庚子日施兮, 服集予舍, 止於坐隅, 貌甚閒暇. 異物來集兮, 私怪其故, 發書占之兮, 筴言其度. 曰: “野鳥入處兮, 主人將去”. 請問於服兮: “予去何之? 吉乎告我, 凶言其菑. 淹數之度兮, 語予其期.” 服乃歎息, 擧首奮翼, 口不能言, 請對以意.
13. 訊曰: 已矣, 國其莫我知, 獨堙欝兮其誰語? 鳳漂漂其高遰兮, 夫固自縮而遠去. 襲九淵之神龍兮, 沕深潛以自珍. 彌融爚以隱處兮, 夫豈從螘與蛭螾? 所貴聖人之神德兮, 遠濁世而自藏. 使騏驥可得係羈兮, 豈雲異夫犬羊! 般紛紛其離此尤兮, 亦夫子之辜也! 瞝九州而相君兮, 何必懷此都也? 鳳皇翔於千仭之上兮, 覽德煇而下之: 見細德之險(微[徴]兮, 搖增翮逝而去之. 彼尋常之汚瀆兮, 豈能容呑舟之魚! 橫江湖之鱣鯨兮, 固將制於蟻螻.
12. 賈生旣辭往行, 聞長沙卑溼, 自以壽不得長, 又以適去, 意不自得. 及渡湘水, 爲賦以弔屈原. 其辭曰: 共承嘉惠兮, 俟罪長沙. 側聞屈原兮, 自沈汨羅. 造託湘流兮, 敬弔先生. 遭世罔極兮, 乃隕厥身. 嗚呼哀哉, 逢時不祥! 鸞鳳伏竄兮, 鴟梟翶翔. 闒茸尊顯兮, 讒諛得志: 賢聖逆曳兮, 方正倒植. 世謂伯夷貪兮, 謂盜蹠廉: 莫邪爲頓兮, 鉛刀爲銛. 於嗟嚜嚜兮, 生之無故! 斡棄周鼎兮寶康瓠, 騰駕罷牛兮驂蹇驢, 驥垂兩耳兮服鹽車. 章甫薦屨兮, 漸不可久: 嗟苦先生兮, 獨離此咎!
11. 賈生以爲漢興至孝文二十餘年, 天下和洽, 而固當改正朔, 易服色, 法制度, 定官名, 興禮樂, 乃悉草具其事儀法, 色尙黃, 數用五, 爲官名, 悉更秦之法. 孝文帝初卽位, 謙讓未遑也. 諸律令所更定, 及列侯悉就國, 其說皆自賈生發之. 於是天子議以爲賈生任公卿之位. 絳ㆍ灌ㆍ東陽侯ㆍ馮敬之屬盡害之, 乃短賈生曰: “雒陽之人, 年少初學, 專欲擅權, 紛亂諸事.” 於是天子後亦疏之, 不用其議, 乃以賈生爲長沙王太傅.
43. 子愼生鮒, 年五十七, 爲陳王涉博士, 死於陳下. 鮒弟子襄, 年五十七. 嘗爲孝惠皇帝博士, 遷爲長沙太守. 長九尺六寸. 子襄生忠, 年五十七. 忠生武, 武生延年及安國. 安國爲今皇帝博士, 至臨淮太守, 蚤卒. 安國生卬, 卬生驩.
42. 孔子生鯉, 字伯魚. 伯魚年五十, 先孔子死.伯魚生伋, 字子思, 年六十二. 嘗困於宋. 子思作中庸.子思生白, 字子上, 年四十七. 子上生求, 字子家, 年四十五. 子家生箕, 字子京, 年四十六. 子京生穿, 字子高, 年五十一. 子高生子愼, 年五十七, 嘗爲魏相.
41. 孔子葬魯城北泗上, 弟子皆服三年. 三年心喪畢, 相訣而去, 則哭, 各復盡哀: 或復留. 唯子贛廬於冢上, 凡六年, 然後去. 弟子及魯人往從冢而家者百有余室, 因命曰孔里. 魯世世相傳以歲時奉祠孔子冢, 而諸儒亦講禮鄕飮大射於孔子冢. 孔子冢大一頃. 故所居堂弟子内, 後世因廟藏孔子衣冠琴車書, 至于漢二百余年不絶. 高皇帝過魯, 以太牢祠焉. 諸侯卿相至, 常先謁然後從政.
25. 去葉, 反于蔡. 長沮ㆍ桀溺耦而耕, 孔子以爲隱者, 使子路問津焉. 長沮曰: “彼執輿者爲誰?” 子路曰: “爲孔丘.” 曰: “是魯孔丘與?” 曰: “然.” 曰: “是知津矣.” 桀溺謂子路曰: “子爲誰?” 曰: “爲仲由.” 曰: “子, 孔丘之徒與?” 曰: “然.” 桀溺曰: “悠悠者天下皆是也, 而誰以易之? 且與其從辟人之士, 豈若從辟世之士哉!” 耰而不輟. 子路以告孔子, 孔子憮然曰: “鳥獸不可與同群. 天下有道, 丘不與易也.” 他日, 子路行, 遇荷蓧丈人, 曰: “子見夫子乎?” 丈人曰: “四体不勤, 五谷不分, 孰爲夫子!” 植其杖而藝. 子路以告, 孔子曰: “隱者也.” 復往, 則亡.
24. 토사구팽으로 회음후가 된 한신 項王亡將鍾離眛家在伊廬. 素與信善, 項王死後, 亡歸信. 漢王怨眛, 聞其在楚, 詔楚捕眛. 信初之國, 行縣邑, 陳兵出入. 漢六年, 人有上書告楚王信反. 高帝以陳平計, 天子巡狩會諸侯. 南方有雲夢, 發使告諸侯“會陳吾將游雲夢.” 實欲襲信, 信弗知. 高祖且至楚, 信欲發兵反. 自度無罪, 欲謁上, 恐見禽. 人或說信曰: “斬眛謁上, 上必喜, 無患.” 信見眛計事. 眛曰: “漢所以不擊取楚, 以眛在公所. 若欲捕我以自媚於漢, 吾今日死, 公亦隨手亡矣.” 乃罵信曰: “公非長者!” 卒自剄. 信持其首, 謁高祖於陳. 上令武士縛信, 載後車. 信曰: “果若人言, “狡兔死, 良狗亨; 高鳥盡, 良弓藏; 敵國破, 謀臣亡.” 天下已定, 我固當亨!” 上曰: “人告公反.” 遂械繫信, 至雒陽, 赦信罪, 以爲淮陰侯. 해..
23. 漢王之困固陵, 用張良計, 召齊王信, 遂將兵會垓下. 項羽已破, 高祖襲奪齊王軍. 漢五年正月, 徙齊王信爲楚王, 都下邳. 信至國, 召所從食漂母, 賜千金. 及下鄕南昌亭長, 賜百錢, 曰: “公, 小人也, 爲德不卒.” 召辱己之少年令出胯下者以爲楚中尉. 告諸將相曰: “此壯士也. 方辱我時, 我寧不能殺之邪? 殺之無名, 故忍而就於此.”
22. 今足下戴震主之威, 挾不賞之功, 歸楚, 楚人不信; 歸漢, 漢人震恐: 足下欲持是安歸乎? 夫勢在人臣之位而有震主之威, 名高天下, 竊爲足下危之.” 韓信謝曰: “先生且休矣, 吾將念之.” 後數日, 蒯通復說曰: “夫聽者事之候也, 計者事之機也, 聽過計失而能久安者, 鮮矣. 聽不失一二者, 不可亂以言; 計不失本末者, 不可紛以辭. 夫隨廝養之役者, 失萬乘之權; 守儋石之祿者, 闕卿相之位. 故知者決之斷也, 疑者事之害也, 審豪氂之小計, 遺天下之大數, 智誠知之, 決弗敢行者, 百事之禍也. 故曰: “猛虎之猶豫, 不若蜂蠆之致螫; 騏驥之跼躅, 不如駑馬之安步; 孟賁之狐疑, 不如庸夫之必至也; 雖有舜禹之智, 吟而不言, 不如瘖聾之指麾也”. 此言貴能行之. 夫功者難成而易敗, 時者難得而易失也. 時乎時, 不再來. 願足下詳察之.” 韓信猶豫不忍倍漢, 又..
21. 今足下欲行忠信以交於漢王, 必不能固於二君之相與也, 而事多大於張黶、陳澤. 故臣以爲足下必漢王之不危己, 亦誤矣. 大夫種、范蠡存亡越, 霸句踐, 立功成名而身死亡. 野獸已盡而獵狗亨. 夫以交友言之, 則不如張耳之與成安君者也; 以忠信言之, 則不過大夫種、范蠡之於句踐也. 此二人者, 足以觀矣. 願足下深慮之. 且臣聞勇略震主者身危, 而功蓋天下者不賞. 臣請言大王功略: 足下涉西河, 虜魏王, 禽夏說, 引兵下井陘, 誅成安君, 徇趙, 脅燕, 定齊, 南摧楚人之兵二十萬, 東殺龍且, 西鄕以報, 此所謂功無二於天下, 而略不世出者也.
7. 其八月, 以信爲左丞相, 擊魏. 魏王盛兵蒲阪, 塞臨晉, 信乃益爲疑兵, 陳船欲度臨晉, 而伏兵從夏陽以木罌缻渡軍, 襲安邑. 魏王豹驚, 引兵迎信, 信遂虜豹, 定魏爲河東郡. 漢王遣張耳與信俱, 引兵東, 北擊趙、代. 後九月, 破代兵, 禽夏說閼與. 信之下魏破代, 漢輒使人收其精兵, 詣滎陽以距楚. 信與張耳以兵數萬, 欲東下井陘擊趙. 趙王、成安君陳餘聞漢且襲之也, 聚兵井陘口, 號稱二十萬. 廣武君李左車說成安君曰: “聞漢將韓信涉西河, 虜魏王, 禽夏說, 新喋血閼與, 今乃輔以張耳, 議欲下趙, 此乘勝而去國遠鬥, 其鋒不可當. 臣聞千里餽糧, 士有飢色, 樵蘇後爨, 師不宿飽. 今井陘之道, 車不得方軌, 騎不得成列, 行數百里, 其勢糧食必在其後.
완벽(完璧) 결점이 없다 趙王得楚和氏璧, 秦昭王欲之, 請易以十五城. 趙王以問藺相如, 對曰: “秦以城求璧, 而王不許, 曲在我矣, 我與之璧, 而秦不與我城, 則曲在秦. 臣願奉璧而往. 使秦城不入, 請完璧而歸.” 相如至秦, 秦王無意償趙城. 相如乃紿秦王, 復取璧, 遣使者懷歸趙. 而以身待命於秦, 秦王賢而弗誅, 禮而歸之. 趙王以相如爲上大夫. 『통감절요(通鑑節要)』 「주기(周紀)」 난왕(赧王) 32년 해석 趙王得楚和氏璧, 조나라 왕이 초나라 화씨의 구슬을 얻었는데 秦昭王欲之, 請易以十五城. 진소왕이 그걸 욕심내어 15개 성으로 바꾸길 청하였다. 趙王以問藺相如, 對曰: 조나라 왕이 인상여에게 물으니 인상여가 대답했다. “秦以城求璧, 而王不許, “진나라가 성으로 구슬을 구하려 하는데 왕이 허락지 않으면 曲在我矣, 잘못은 저..
6. 문경지교 旣罷歸國, 以相如功大, 拜爲上卿, 位在廉頗之右. 廉頗曰: “我爲趙將, 有攻城野戰之大功, 而藺相如徒以口舌爲勞, 而位居我上. 且相如素賤人, 吾羞, 不忍爲之下.” 宣言曰: “我見相如, 必辱之.” 相如聞, 不肯與會. 相如每朝時, 常稱病, 不欲與廉頗爭列. 已而相如出, 望見廉頗, 相如引車避匿. 於是舍人相與諫曰: “臣所以去親戚而事君者, 徒慕君之高義也. 今君與廉頗同列, 廉君宣惡言而君畏匿之, 恐懼殊甚. 且庸人尙羞之, 況於將相乎! 臣等不肖, 請辭去.” 藺相如固止之, 曰: “公之視廉將軍孰與秦王?” 曰: “不若也.” 相如曰: “夫以秦王之威, 而相如廷叱之, 辱其群臣, 相如雖駑, 獨畏廉將軍哉? 顧吾念之, 彊秦之所以不敢加兵於趙者, 徒以吾兩人在也. 今兩虎共鬪, 其勢不俱生. 吾所以爲此者, 以先國家之急而後私讎也.” 廉頗聞..
5. 진나라와의 회담에서 의기로 맞선 인상여 其後秦伐趙, 拔石城. 明年, 複攻趙, 殺二萬人. 秦王使使者告趙王, 欲與王爲好會於西河外澠池. 趙王畏秦, 欲毋行. 廉頗ㆍ藺相如計曰: “王不行, 示趙弱且怯也.” 趙王遂行, 相如從. 廉頗送至境, 與王訣曰: “王行, 度道里, 會遇之禮畢, 還, 不過三十日. 三十日不還, 則請立太子爲王. 以絶秦望.” 王許之. 遂與秦王會澠池. 秦王飮酒酣曰: “寡人竊聞趙王好音, 請奏瑟.” 趙王鼓瑟. 秦禦史前書曰: “某年月日, 秦王與趙王會飮, 令趙王鼓瑟”. 藺相如前曰: “趙王竊聞秦王善爲秦聲, 請奏盆缻秦王, 以相娛樂.” 秦王怒, 不許. 於是相如前進缻, 因跪請秦王. 秦王不肯擊缻. 相如曰: “五步之內, 相如請得以頸血濺大王矣!” 左右欲刃相如, 相如張目叱之, 左右皆靡. 於是秦王不懌, 爲一擊缻. 相如顧召趙..
스스로를 추천하여 실력발휘한 모수 秦以王陵, 攻邯鄲. 武安君曰: “邯鄲實, 未易攻也, 且諸侯之救, 日至, 破秦軍必矣.” 辭疾不行. 乃以王齕, 代王陵. 趙王, 使平原君, 求救於楚, 平原君, 約, 其門下食客文武備具者二十人, 與之俱, 得十九人, 餘無可取者. 毛遂自薦於平原君, 平原君曰: “夫賢士之處世也, 譬若錐之處囊中, 其末立見. 今先生處勝之門下三年於此矣, 勝未有所聞, 是先生無所有也.” 毛遂曰: “臣乃今日, 請處囊中爾. 使遂蚤得處囊中, 乃穎脫而出, 非特其末見而已.” 平原君乃與之俱, 十九人相與目笑之. 平原君至楚, 與楚王言合從之利害, 日出而言之, 日中不決. 毛遂按劒歷階而上, 謂平原君曰: “從之利害, 兩言而決爾. 今日出而言, 日中不決, 何也?” 楚王怒叱曰: “胡不下? 吾乃與而君言, 汝何爲者也?” 遂按劒而前曰: “王之..
조창의 모함으로 옥사 당한 정숭 尙書令趙昌佞諂, 素害崇, 知其見疏, 因奏. “崇與宗族通, 疑有姦, 請治.” 上責崇曰: “君門如市人, 何以欲禁切主上?” 崇對曰: “臣門如市, 而臣心如水, 願得考覆.” 上怒, 下崇獄, 窮治, 死獄中. 『자치통감(資治通鑑)』 해석 尙書令趙昌佞諂, 상서령 조창이 아첨하길 좋아해 素害崇, 知其見疏, 평소에 정숭을 해치려 했는데 황상과 사이가 멀어졌음을 보아 알고 因奏. 그로 인해 주청했다. “崇與宗族通, 疑有姦, “정숭이 친척들과 내통하여 간사한 일을 꾸미나 의심되오니, 請治.” 이 일을 처리해주시길 청하옵니다.” 上責崇曰: 임금께서 정승을 꾸짖었다. “君門如市人, 何以欲禁切主上?” “그대 집 문이 저자거리 같은데 어째서 나와 관계를 끊으려 하는가?” 崇對曰: “臣門如市, 而臣心如..
11. 기근이 든 이웃나라를 대하는 방식 晉旱, 來請粟. 丕豹說繆公勿與, 因其饑而伐之. 繆公問公孫支, 支曰: “饑穰更事耳, 不可不與.” 問百里傒, 傒曰: “夷吾得罪於君, 其百姓何罪?” 於是用百里傒ㆍ公孫支言, 卒與之粟. 以船漕車轉, 自雍相望至絳. 十四年, 秦饑, 請粟於晉. 晉君謀之群臣. 虢射曰: “因其饑伐之, 可有大功.” 晉君從之. 해석 晉旱, 來請粟. 진나라가 가뭄이 들자 식량을 요청해왔다. 丕豹說繆公勿與, 因其饑而伐之. 비표는 목공에게 주지 말고 기근을 틈타 정벌하자고 설득했다. 繆公問公孫支, 支曰: 목공이 공손지에게 물으니 공손지가 말했다. “饑穰更事耳, 不可不與.” “흉년과 풍년은 번갈아 일어나는 일일 뿐이니 주지 않아선 안 됩니다.” 問百里傒, 傒曰: 백리해에게 물으니 백리해가 대답했다. “夷吾得..
40. 秦王政立二十六年, 初幷天下爲三十六郡, 號爲始皇帝. 始皇帝五十一年而崩, 子胡亥立, 是爲二世皇帝. 三年, 諸侯竝起叛秦, 趙高殺二世, 立子嬰. 子嬰立月餘, 諸侯誅之, 遂滅秦. 其語在始皇本紀中. 太史公曰: 秦之先爲嬴姓. 其後分封, 以國爲姓, 有徐氏ㆍ郯氏ㆍ莒氏ㆍ終黎氏ㆍ運奄氏ㆍ菟裘氏ㆍ將梁氏ㆍ黃氏ㆍ江氏ㆍ脩魚氏ㆍ白冥氏ㆍ蜚廉氏ㆍ秦氏. 然秦以其先造父封趙城, 爲趙氏.
39. 孝文王元年, 赦罪人, 修先王功臣, 褒厚親戚, 弛苑囿. 孝文王除喪, 十月己亥卽位, 三日辛丑卒, 子莊襄王立.莊襄王元年, 大赦罪人, 修先王功臣, 施德厚骨肉而布惠於民. 東周君與諸侯謀秦, 秦使相國呂不韋誅之, 盡入其國. 秦不絶其祀, 以陽人地賜周君, 奉其祭祀. 使蒙驁伐韓, 韓獻成皐ㆍ鞏. 秦界至大梁, 初置三川郡. 二年, 使蒙驁攻趙, 定太原. 三年, 蒙驁攻魏高都ㆍ汲, 拔之. 攻趙楡次ㆍ新城ㆍ狼孟, 取三十七城. 四月日食. (四年王齕攻上黨. 初置太原郡. 魏將無忌率五國兵擊秦, 秦卻於河外. 蒙驁敗, 解而去. 五月丙午, 莊襄王卒, 子政立, 是爲秦始皇帝.
38. 五十三年, 天下來賓. 魏後, 秦使摎伐魏, 取吳城. 韓王入朝, 魏委國聽令. 五十四年, 王郊見上帝於雍. 五十六年秋, 昭襄王卒, 子孝文王立. 尊唐八子爲唐太后, 而合其葬於先王. 韓王衰絰入弔祠, 諸侯皆使其將相來弔祠, 視喪事.
37. 四十九年正月, 益發卒佐陵. 陵戰不善, 免, 王齕代將. 其十月, 將軍張唐攻魏, 爲蔡尉捐弗守, 還斬之. 五十年十月, 武安君白起有罪, 爲士伍, 遷陰密. 張唐攻鄭, 拔之. 十二月, 益發卒軍汾城旁. 武安君白起有罪, 死. 齕攻邯鄲, 不拔, 去, 還奔汾軍. 二月餘攻晉軍, 斬首六千, 晉楚流死河二萬人. 攻汾城, 卽從唐拔寧新中, 寧新中更名安陽. 初作河橋.五十一年, 將軍摎攻韓, 取陽城ㆍ負黍, 斬首四萬. 攻趙, 取二十餘縣, 首虜九萬. 西周君背秦, 與諸侯約從, 將天下銳兵出伊闕攻秦, 令秦毋得通陽城. 於是秦使將軍摎攻西周. 西周君走來自歸, 頓首受罪, 盡獻其邑三十六城, 口三萬. 秦王受獻, 歸其君於周. 五十二年, 周民東亡, 其器九鼎入秦. 周初亡.
36. 三十五年, 佐韓ㆍ魏ㆍ楚伐燕. 初置南陽郡. 三十六年, 客卿灶攻齊, 取剛ㆍ壽, 予穰侯. 三十八年, 中更胡(傷[陽]攻趙閼與, 不能取. 四十年, 悼太子死魏, 歸葬芷陽. 四十一年夏, 攻魏, 取邢丘ㆍ懷. 四十二年, 安國君爲太子. 十月, 宣太后薨, 葬芷陽酈山. 九月, 穰侯出之陶. 四十三年, 武安君白起攻韓, 拔九城, 斬首五萬. 四十四年, 攻韓南(郡[陽], 取之. 四十五年, 五大夫賁攻韓, 取十城. 葉陽君悝出之國, 未至而死. 四十七年, 秦攻韓上黨, 上黨降趙, 秦因攻趙, 趙發兵擊秦, 相距. 秦使武安君白起擊, 大破趙於長平, 四十餘萬盡殺之. 四十八年十月, 韓獻垣雍. 秦軍分爲三軍. 武安君歸. 王齕將伐趙(武安皮牢, 拔之. 司馬梗北定太原, 盡有韓上黨. 正月, 兵罷, 復守上黨. 其十月, 五大夫陵攻趙邯鄲.
35. 二十六年, 赦罪人遷之穰. 侯冉復相. 二十七年, 錯攻楚. 赦罪人遷之南陽. 白起攻趙, 取代光狼城. 又使司馬錯發隴西, 因蜀攻楚黔中, 拔之. 二十八年, 大良造白起攻楚, 取鄢ㆍ鄧, 赦罪人遷之. 二十九年, 大良造白起攻楚, 取郢爲南郡, 楚王走. 周君來. 王與楚王會襄陵. 白起爲武安君. 三十年, 蜀守若伐楚, 取巫郡, 及江南爲黔中郡. 三十一年, 白起伐魏, 取兩城. 楚人反我江南. 三十二年, 相穰侯攻魏, 至大梁, 破暴鳶, 斬首四萬, 鳶走, 魏入三縣請和. 三十三年, 客卿胡(傷[陽]攻魏卷ㆍ蔡陽ㆍ長社, 取之. 擊芒卯華陽, 破之, 斬首十五萬. 魏入南陽以和. 三十四年, 秦與魏ㆍ韓上庸地爲一郡, 南陽免臣遷居之.
34. 十三年, 向壽伐韓, 取武始. 左更白起攻新城. 五大夫禮出亡奔魏. 任鄙爲漢中守. 十四年, 左更白起攻韓ㆍ魏於伊闕, 斬首二十四萬, 虜公孫喜, 拔五城. 十五年, 大良造白起攻魏, 取垣, 復予之. 攻楚, 取宛. 十六年, 左更錯取軹及鄧. 冉免, 封公子市宛, 公子悝鄧 魏冉陶, 爲諸侯. 十七年, 城陽君入朝, 及東周君來朝. 秦以垣爲蒲阪ㆍ皮氏. 王之宜陽. 十八年, 錯攻垣ㆍ 河雍, 決橋取之. 十九年, 王爲西帝, 齊爲東帝, 皆復去之. 呂禮來自歸. 齊破宋, 宋王在魏, 死溫. 任鄙卒. 二十年, 王之漢中, 又之上郡ㆍ北河. 二十一年, 錯攻魏河內. 魏獻安邑, 秦出其人, 募徙河東賜爵, 赦罪人遷之. 涇陽君封宛. 二十二年, 蒙武伐齊. 河東爲九縣. 與楚王會宛. 與趙王會中陽. 二十三年, 尉斯離與三晉ㆍ燕伐齊, 破之濟西. 王與魏王會宜陽, 與韓..
33. 昭襄王元年, 嚴君疾爲相. 甘茂出之魏. 二年, 彗星見. 庶長壯與大臣ㆍ諸侯ㆍ公子爲逆, 皆誅, 及惠文后皆不得良死. 悼武王后出歸魏. 三年, 王冠. 與楚王會黃棘, 與楚上庸. 四年, 取蒲阪. 彗星見. 五年, 魏王來朝應亭, 復與魏蒲阪. 六年, 蜀侯煇反, 司馬錯定蜀. 庶長奐伐楚, 斬首二萬. 涇陽君質於齊. 日食, 晝晦. 七年, 拔新城. 樗里子卒. 八年, 使將軍羋戎攻楚, 取新市. 齊使章子, 魏使公孫喜, 韓使暴鳶共攻楚方城, 取唐眛. 趙破中山, 其君亡, 竟死齊. 魏公子勁ㆍ韓公子長爲諸侯. 九年, 孟嘗君薛文來相秦. 奐攻楚, 取八城, 殺其將景快. 十年, 楚懷王入朝秦, 秦留之. 薛文以金受免. 樓緩爲丞相. 十一年, 齊ㆍ韓ㆍ魏ㆍ趙ㆍ宋ㆍ中山五國共攻秦, 至鹽氏而還. 秦與韓ㆍ魏河北及封陵以和. 彗星見. 楚懷王走之趙, 趙不受, 還之秦, ..
32. 惠王卒, 子武王立. 韓ㆍ魏ㆍ齊ㆍ楚ㆍ越皆賓從. 武王元年, 與魏惠王會臨晉. 誅蜀相壯. 張儀ㆍ魏章皆東出之魏. 伐義渠ㆍ丹ㆍ犂. 二年, 初置丞相, 樗里疾ㆍ甘茂爲左右丞相. 張儀死於魏. 三年, 與韓襄王會臨晉外. 南公揭卒, 樗里疾相韓. 武王謂甘茂曰: “寡人欲容車通三川, 窺周室, 死不恨矣.” 其秋, 使甘茂ㆍ庶長封伐宜陽. 四年, 拔宜陽, 斬首六萬. 涉河, 城武遂. 魏太子來朝. 武王有力好戱, 力士任鄙ㆍ烏獲ㆍ孟說皆至大官. 王與孟說擧鼎, 絶臏. 八月, 武王死. 族孟說. 武王取魏女爲后, 無子. 立異母弟, 是爲昭襄王. 昭襄母楚人, 姓羋氏, 號宣太后. 武王死時, 昭襄王爲質於燕, 燕人送歸, 得立.
10. 교주고슬의 인물 조괄을 장수로 임명하다 後四年, 趙惠文王卒, 子孝成王立. 七年, 秦與趙兵相距長平. 時趙奢已死, 而藺相如病篤, 趙使廉頗將攻秦, 秦數敗趙軍, 趙軍固壁不戰. 秦數挑戰, 廉頗不肯. 趙王信秦之閒, 秦之閒言曰: “秦之所惡, 獨畏馬服君趙奢之子趙括爲將耳.” 趙王因以括爲將, 代廉頗. 藺相如曰: “王以名使括, 若膠柱而鼓瑟耳. 括徒能讀其父書傳, 不知合變也.” 趙王不聽, 遂將之. 해석 後四年, 趙惠文王卒, 子孝成王立. 4년 후 조혜문왕이 죽고 아들 효성왕이 즉위했다. 七年, 秦與趙兵相距長平. 효성왕 7년에 진나라와 조나라 병사들이 서로 장평에서 거리를 두고 있었다. 時趙奢已死, 而藺相如病篤, 이때 조사는 이미 죽었고 인상여는 병들어 위독했기에 趙使廉頗將攻秦, 秦數敗趙軍, 조나라는 염파 장군에게 장차 진..
11. 趙括自少時學兵法, 言兵事, 以天下莫能當. 嘗與其父奢言兵事, 奢不能難, 然不謂善. 括母問奢其故, 奢曰: “兵, 死地也, 而括易言之. 使趙不將括卽已, 若必將之, 破趙軍者必括也.” 及括將行, 其母上書言於王曰: “括不可使將.” 王曰: “何以?” 對曰: “始妾事其父, 時爲將, 身所奉飯飮而進食者以十數, 所友者以百數, 大王及宗室所賞賜者盡以予軍吏士大夫, 受命之日, 不問家事. 今括一旦爲將, 東向而朝, 軍吏無敢仰視之者, 王所賜金帛, 歸藏於家, 而日視便利田宅可買者買之. 王以爲何如其父? 父子異心, 願王勿遣.” 王曰: “母置之, 吾已決矣.” 括母因曰: “王終遣之, 卽有如不稱, 妾得無隨坐乎?” 王許諾.
9. 趙奢旣已遣秦閒, 卷甲而趨之, 二日一夜至, 今善射者去閼與五十里而軍. 軍壘成, 秦人聞之, 悉甲而至. 軍士許歷請以軍事諫, 趙奢曰: “內之.” 許歷曰: “秦人不意趙師至此, 其來氣盛, 將軍必厚集其陣以待之. 不然, 必敗.” 趙奢曰: “請受令.” 許歷曰: “請就鈇質之誅.” 趙奢曰: “胥後令邯鄲.” 許歷複請諫, 曰: “先據北山上者勝, 後至者敗.” 趙奢許諾, 卽發萬人趨之. 秦兵後至, 爭山不得上, 趙奢縱兵擊之, 大破秦軍. 秦軍解而走, 遂解閼與之圍而歸. 趙惠文王賜奢號爲馬服君, 以許歷爲國尉. 趙奢於是與廉頗ㆍ藺相如同位.
8. 양서투혈(兩鼠鬪穴) 秦伐韓, 軍於閼與. 王召廉頗而問曰: “可救不?” 對曰: “道遠險狹, 難救.” 又召樂乘而問焉, 樂乘對如廉頗言. 又召問趙奢, 奢對曰: “其道遠險狹, 譬之猶兩鼠鬪於穴中, 將勇者勝.” 王乃令趙奢將, 救之. 兵去邯鄲三十里, 而令軍中曰: “有以軍事諫者死.” 秦軍軍武安西, 秦軍鼓譟勒兵, 武安屋瓦盡振. 軍中候有一人言急救武安, 趙奢立斬之. 堅壁, 留二十八日不行, 複益增壘. 秦閒來入, 趙奢善食而遣之. 閒以報秦將, 秦將大喜曰: “夫去國三十里而軍不行, 乃增壘, 閼與非趙地也.”
7. 조사(趙奢)ㆍ조괄(趙括) 趙奢者, 趙之田部吏也. 收租稅而平原君家不肯出租, 奢以法治之, 殺平原君用事者九人. 平原君怒, 將殺奢. 奢因說曰: “君於趙爲貴公子, 今縱君家而不奉公則法削, 法削則國弱, 國弱則諸侯加兵, 諸侯加兵是無趙也, 君安得有此富乎? 以君之貴, 奉公如法則上下平, 上下平則國彊, 國彊則趙固, 而君爲貴戚, 豈輕於天下邪?” 平原君以爲賢, 言之於王. 王用之治國賦, 國賦大平, 民富而府庫實.
계명구도(鷄鳴狗盜) 하잘 것 없어 보이지만 요긴한 재주 秦王聞孟嘗君之賢, 使涇陽君, 爲質於齊以請, 孟嘗君來入秦. 秦王以爲丞相, 或謂秦王曰: “孟嘗君相秦, 必先齊而後秦, 秦其危哉.” 秦王乃以樓緩爲相, 囚孟嘗君, 欲殺之. 孟嘗君, 使人, 求解於秦王幸姬. 姬曰: “願得君狐白裘.” 孟嘗君有狐白裘, 已獻之秦王, 無以應姬求. 客有善爲狗盜者, 入秦藏中, 盜狐白裘以獻姬, 姬乃爲之言於王而遣之. 王後悔, 使追之. 孟嘗君至關, 關法, 鷄鳴, 而出客. 時尙早, 追者將至, 客有善爲鷄鳴者, 野鷄聞之, 皆鳴. 孟嘗君乃得脫歸. 『통감절요(通鑑節要)』 「주기(周紀)」 난왕(赧王) 17년 해석 秦王聞孟嘗君之賢, 使涇陽君, 진나라 왕이 맹상군이 어질다는 걸 듣고 경양군에게 爲質於齊以請, 孟嘗君來入秦. 제나라의 인질이 되어 보길 청하니 맹..
의려이망(倚閭而望) 문에 기대어 기다리는 애틋한 부모의 마음 齊淖齒之亂, 王孫賈從湣王, 失王之處. 其母曰: “汝朝出而晩來, 則吾倚門而望, 汝暮出而不還, 則吾倚閭而望. 汝今事王, 王走, 汝不知其處, 汝尙何歸焉?” 王孫賈乃攻淖齒, 殺之. 於是, 齊亡臣, 相與求湣王子法章, 立以爲齊王, 保莒城, 以拒燕. 『통감절요(通鑑節要)』 「주기(周紀)」 난왕(赧王) 32년 해석 齊淖齒之亂, 王孫賈從湣王, 제나라 요치의 난으로 왕손가는 민왕을 수행하다가 失王之處. 왕이 계신 곳을 잃어버렸다. 其母曰: “汝朝出而晩來, 則吾倚門而望, 어머니께서 말씀하셨다. “네가 아침에 나가 늦게 돌아오면 나는 문에 기대어 기다렸고 汝暮出而不還, 則吾倚閭而望. 네가 저녁에 나가 돌아오지 않으면 나는 마을문에 기대어 기다렸다. 汝今事王, 王走,..
삼고초려(三顧草廬) 인재를 구하고자 하는 절실함과 윗사람을 향한 노력의 진심 玄德曰: “大丈夫, 抱經世奇才, 豈可空老於林泉之下? 願先生, 以天下蒼生, 爲念, 開備愚魯, 而賜敎.” 孔明笑曰: “願聞將軍之志.” 玄德, 移坐促席, 而告曰: “漢室, 傾頹, 奸臣, 竊命, 備不量力, 欲伸大義於天下, 而智術淺短, 迄無所就. 惟先生, 開其愚, 而拯其厄, 實爲萬幸.” 孔明曰: “自董卓, 造逆以來, 天下豪傑, 竝起. 曹操, 勢不及袁紹, 而竟能克紹者, 非惟天時, 抑亦人謀也. 今操, 已擁百萬之衆, 挾天子, 以令諸侯, 此誠不可與爭鋒. 孫權, 據有江東, 已歷三世, 國險而民附, 此可用爲援, 而不可圖也. 荊州, 北據漢水, 利盡南海, 東連吳會, 西通巴ㆍ蜀, 此用武之地, 非其主, 不能守. 是殆天所以資將軍, 豈可棄乎? 益州, 險塞, 沃..
백미(白眉) 재능이 뛰어난 이 馬良字季常, 襄陽宜城人也. 兄弟五人, 竝有才名, 鄕里爲之諺曰: “馬氏五常, 白眉最良.” 良眉中有白毛, 故以稱之. -『三國志』 「촉서(蜀書)」 마량전(馬良傳) 해석 馬良字季常, 襄陽宜城人也. 마량의 자는 계상으로 양양 의성 사람이다. 兄弟五人, 竝有才名, 형제 다섯 사람이 함께 재주에 따른 명성이 있었는데 鄕里爲之諺曰: 마을 사람들이 그들에 대해 말했다. “馬氏五常, 白眉最良.” “마씨의 다섯 형제 중에 흰 눈썹을 지닌 이가 가장 뛰어나다.” 良眉中有白毛, 故以稱之. -『三國志』 「촉서(蜀書)」 마량전(馬良傳) 마량의 눈썹 가운데 흰 털이 있었기 때문에 그렇게 말한 것이다. 인용 고사성어 수업실연
27. 미생지신(尾生之信) 人有毁蘇秦者曰: “左右賣國反覆之臣也, 將作亂.” 蘇秦恐得罪歸, 而燕王不復官也. 蘇秦見燕王曰: “臣, 東周之鄙人也, 無有分寸之功. 而王親拜之於廟而禮之於廷, 今臣爲王卻齊之兵而(攻)得十城. 宜以益親, 今來而王不官臣者. 人必有以不信傷臣於王者. 臣之不信, 王之福也. 臣聞忠信者, 所以自爲也 進取者 所以爲人也. 且臣之說齊王, 曾非欺之也. 臣弃老母於東周, 固去自爲而行進取也. 今有孝如曾參, 廉如伯夷, 信如尾生, 得此三人者以事大王, 何若?” 王曰: “足矣” 蘇秦曰: “孝如曾參, 義不離其親一宿於外, 王又安能使之步行千里而事弱燕之危王哉; 廉如伯夷, 義不爲孤竹君之嗣, 不肯爲武王臣, 不受封侯而餓死首陽山下, 有廉如此, 王又安能使之步行千里而行進取於齊哉; 信如尾生, 與女子期於梁下, 女子不來, 水至不去, 抱柱而..
망매지갈(望梅止渴) 매화를 상상하니 갈증이 멈추네 操曰: “適見枝頭梅子靑靑, 忽感去年征張繡時. 道上缺水, 將士皆渴. 吾心生一計, 以鞭虛指曰: ‘前面有梅林.’ 軍士聞之, 口皆生唾, 由是不渴. 今見此梅, 不可不賞, 又値煮酒正熟, 故邀使君小亭一會.” -『삼국연의(三國演義)』 해석 操曰: “適見枝頭梅子靑靑, 忽感去年征張繡時. 조조가 유비에게 말했다. “마침 가지 끝에 매화열매가 푸른 걸 보니 갑자기 작년에 장수를 칠 때가 생각났소. 道上缺水, 將士皆渴. 길가에 물이 없어 장수와 졸병들이 모두 갈증이 났네. 吾心生一計, 以鞭虛指曰: ‘前面有梅林.’ 나는 내심 한 계책을 내어 채찍으로 허공을 가리키며 ‘앞에 매화숲이 있다.’고 말했지. 軍士聞之, 口皆生唾, 由是不渴. 군사들이 이 말을 듣고 입에서 모두 침이 생겨 ..
도원결의(桃園結義) 복숭아 나무 아래서 의형제를 맺다 次日, 於桃園中, 備下烏牛白馬祭禮等項, 三人焚香再拜而說誓曰: “念劉備ㆍ關羽ㆍ張飛, 雖然異姓, 旣結爲兄弟, 則同心協力, 救困扶危, 上報國家, 下安黎庶. 不求同年同月同日生, 只願同年同月同日死. 皇天后土, 實鑒此心, 背義忘恩, 天人共戮.” 誓畢, 拜玄德爲兄, 關羽次之, 張飛爲弟. -『삼국연의(三國演義)』 해석 次日, 於桃園中, 備下烏牛白馬祭禮等項, 다음날 복숭아 동산에서 까마귀 소와 흰 말과 제사용품 등의 항목을 갖추고 三人焚香再拜而說誓曰: 세 사림이 향을 사르고 재배하며 맹세했다. “念劉備ㆍ關羽ㆍ張飛, 雖然異姓, 旣結爲兄弟, “바라건대 유비와 관우와 장비가 비록 다른 성이지만 이미 맺어 형제가 되었으니 則同心協力, 救困扶危, 같은 마음으로 협력하여 곤궁함..
향득사지가 허벅지 살로 어버이를 봉양하다 향득사지할고공친(向得舍知割股供親) 景德王代 熊川州, 有向得舍知者. 年凶其父幾於餒死, 向得, 割股以給養. 州人, 具事奏, 聞景德王賞賜租五百石. 해석 熊川州, 有向得舍知者. 웅천주(신라의 9주 가운데 지금의 충청남도 공주 지역에 둔 행정 구역)에 향득사지라는 사람이 있었다. 年凶其父幾於餒死, 흉년이 들어 아버지가 거의 굶어 죽을 지경이 되자, 向得, 割股以給養. 향득은 넓적다리살을 베어 아버지를 봉양했다. 州人, 具事奏, 고을 사람들이 이 일을 자세히 상주(上奏, 임금께 사룀)하니, 聞景德王賞賜租五百石. 경덕왕이 듣고 상으로 곡식 오백 석을 하사했다. 인용 목차 고사성어 효경한글역주
계륵(鷄肋) 修字德祖, 好學, 有俊才, 爲丞相曹操主簿, 用事曹氏. 及操自平漢中, 欲因討劉備, 而不得進, 欲守之, 又難爲功. 護軍不知進止何依. 操於是出敎, 唯曰: “鷄肋.”而已. 外曹莫能曉, 修獨曰: “夫鷄肋, 食之則無所得, 棄之則如可惜, 公歸計決矣.” 乃令外白稍嚴, 操於此廻師. 修之幾決, 多有此類. 修又嘗出行, 籌操有問外事, 乃逆爲答記, 勅守舍兒. 若有令出, 依次通之. 旣而果然 如是者三. 操怪其速, 使廉之知狀, 於此忌修. 且以袁術之甥, 慮爲後患, 遂因事殺之. - 『후한서(後漢書)』 「양웅열전(楊震列傳)」 해석 修字德祖, 好學, 有俊才, 양수(楊修)의 자는 덕조인데 배우길 좋아하고 넉넉한 재주가 있어 爲丞相曹操主簿, 用事曹氏. 승상 조조의 주부가 되어 조씨의 일을 도맡아 했다. 及操自平漢中, 欲因討劉備, ..
거안제미(擧案齊眉) 남편을 정성스레 대우하다 梁鴻字伯鸞, 扶風平陵人也. … (중략) … 後受業太學, 家貧而尙節介, 博學無不通. … (중략) … 鄕里勢家慕其高節, 多欲女之, 鴻竝絶不娶. 同縣孟氏有女, 肥醜而黑, 力擧石臼. 擇對不嫁, 至年三十, 父母問其故, 曰: “欲得賢如梁伯鸞者.” 鴻聞而聘之. … (중략) … 遂至吳, 依大家皐伯通, 居廡下, 爲人賃舂. 每歸, 妻爲具食, 不敢於鴻前仰視, 擧案齊眉. 伯通察而異之曰: “彼傭能使其妻敬之如此, 非凡人也.” 乃方舍之於家. -『후한서(後漢書)』 「일민전(逸民傳)」 해석 梁鴻字伯鸞, 扶風平陵人也. 양홍의 자는 백란으로 부풍 평릉의 사람이다. … (중략) … 後受業太學, 家貧而尙節介, 훗날 태학에서 수업을 받았는데 집은 가난했지만 절개를 숭상했고 博學無不通. 널리 배워 통..
닭갈비 鷄肋 操收兵於斜谷界口扎住. 操屯兵日久, 欲要進兵, 又被馬超拒守; 欲收兵回, 又恐被蜀兵耻笑, 心中猶豫不決. 適庖官進鷄湯. 操見碗中有鷄肋, 因而有感於懷. 正沉吟間, 夏侯惇入帳, 禀請夜間口號, 操隨口曰: “鷄肋, 鷄肋.” 夏侯惇傳令衆官, 都稱鷄肋. 行軍主簿楊修, 見傳鷄肋二字, 便敎隨行軍士, 各收拾行裝, 準備歸程. 有人報知夏侯惇. 惇大驚, 遂請楊修至帳中間曰: “公何收拾行裝?” 修曰: “以今夜號令, 便知魏王不日將退兵歸也. 鷄肋者, 食之無肉, 棄之有味. 今進不能勝, 退恐人笑, 在此無益, 不如早歸. 來日魏王必班師矣, 故先收拾行裝, 免得臨行慌亂.” -『삼국연의(三國演義)』 해석 操收兵於斜谷界口扎住. 조조가 병사들을 사곡의 입구에 거두어 주둔시켰다. 操屯兵日久, 조조가 병사를 주둔시킨 지 오래되었는데 欲要進兵, ..
거안제미(擧案齊眉) 남편을 정성스레 대우하다 梁鴻字伯, 扶風平陵人也. 家貧而尙節介. 同縣孟氏有女, 肥醜而黑, 力擧石臼. 擇對不嫁., 曰: “欲得賢如梁伯者.” 鴻聞而聘之, 字之曰‘德曜,’ 名孟光. 至吳爲人賃, 每歸, 妻爲具食, 不敢於鴻前, 仰視, 擧案齊眉. -『후한서(後漢書)』 「양홍전(梁鴻傳)」 梁鴻字伯, 扶風平陵人也. 家貧而尙節介. 同縣孟氏有女, 肥醜而黑, 力擧石臼. 擇對不嫁., 曰: “欲得賢如梁伯者.” 鴻聞而聘之, 字之曰‘德曜,’ 名孟光. 至吳爲人賃, 每歸, 妻爲具食, 不敢於鴻前, 仰視, 擧案齊眉. -『후한서(後漢書)』 「양홍전(梁鴻傳)」 해석 梁鴻字伯, 扶風平陵人也. 家貧而尙節介. 양홍의 자는 백으로 부평 평릉 사람이다. 집은 가난했지만 절개를 숭상했다. 同縣孟氏有女, 肥醜而黑, 같은 고을에 맹씨의..
풀을 묶어 은혜를 갚다 結草報恩 秋七月, 秦桓公伐晉, 次于輔氏. 壬午, 晉侯治兵于稷, 以略狄土, 立黎侯而還. 及雒, 魏顆敗秦師于輔氏, 獲杜回, 秦之力人也. 魏武子有嬖妾, 無子. 武子疾, 命顆曰: “必嫁是.” 疾病則曰: “必以爲殉.” 及卒, 顆嫁之曰: “疾病則亂, 吾從其治也.” 及輔氏之役, 顆見老人結草以亢杜回, 杜回躓而顚, 故獲之. 夜夢之曰: “余而所嫁婦人之父也. 爾用先人之治命, 余是以報.” -『春秋左氏傳』 「宣公」15년 해석 秋七月, 秦桓公伐晉, 次于輔氏. 가을 7월(기원전 594년) 진나라 환공이 진나라를 치러 진(晉) 나라의 보씨에 주둔했다. 壬午, 晉侯治兵于稷, 임오일에 진경공(晉景公)이 직에서 군대를 훈련하고 以略狄土, 立黎侯而還. 적토를 공략하여 여후를 세우고 돌아왔다. 及雒, 魏顆敗秦師于輔氏,..
15년 經十有五年 春 公孫歸父會楚子于宋 夏 五月 宋人及楚人平 六月 癸卯 晉師滅赤狄潞氏 以潞子嬰兒歸 秦人伐晉 王札子殺召伯 毛伯 秋‧螽 仲孫蔑 會齊高固於無婁 初稅畝 冬 蝝生 饑 傳十五年 春 公孫歸父會楚子于宋 宋人使樂嬰齊告急於晉 晉侯欲救之 伯宗曰 不可 古人有言曰 雖鞭之長 不及馬腹 天方授楚 未可與爭 雖晉之彊 能違天乎 諺曰 高下在心 川澤納汙 山藪藏疾 瑾瑜匿瑕 國君含垢 天之道也 君其待之 乃止 使解揚如宋 使無降楚 曰 晉師悉起 將至矣 鄭人囚而獻諸楚 楚子厚賂之 使反其言 不許 三而許之 登諸樓車 使呼宋而告之 遂致其君命 楚子將殺之 使與之言曰 爾旣許不穀 而反之 何故 非我無信 女則棄之 速卽爾刑 對曰 臣聞之 君能制命爲義 臣能承命爲信 信載義而行之爲利 謀不失利 以衛社稷 民之主也 義無二信 信無二命 君之賂臣 不知命也 受命以出 有死無霣 又..
14년 經十有四年 春 衛殺其大夫孔達 夏 五月 壬申 曹伯壽卒 晉侯伐鄭 秋 九月 楚子圍宋 葬曹文公 冬 公孫歸父會齊侯于穀 傳十四年 春 孔達縊而死 衛人以說于晉 而免 遂告于諸侯曰 寡君有不令之臣達 構我敝邑于大國 旣伏其罪矣 敢告 衛人以爲成勞 復室其子 使復其位 夏 晉侯伐鄭 爲邲故也 告於諸侯 蒐焉而還 中行桓子之謀也 曰 示之以整 使謀而來 鄭人懼 使子張代子良于楚 鄭伯如楚 謀晉故也 鄭以子良爲有禮 故召之 楚子使申舟聘于齊 曰 無假道于宋 亦使公子馮聘于晉 不假道于鄭 申舟以孟諸之役惡宋 曰 鄭昭 宋聾 晉使不害 我則必死 王曰 殺女 我伐之 見犀而行 及宋 宋人止之 華元曰 過我而不假道 鄙我也 鄙我 亡也 殺其使者 必伐我 伐我 亦亡也 亡一也 乃殺之 楚子聞之 投袂而起 屨及於窒皇 劍及於寢門之外 車及於蒲胥之市 秋 九月 楚子圍宋 冬 公孫歸父會齊侯于穀 見..
13년 經十有三年 春 齊師伐莒 夏 楚子伐宋 秋 螽 冬 晉殺其大夫先縠 傳十三年 春 齊師伐莒 莒恃晉而不事齊故也 夏 楚子伐宋 以其救蕭也 君子曰 清丘之盟 唯宋可以免焉 秋 赤狄伐晉 及清 先縠召之也 冬 晉人討邲之敗 與清之師 歸罪於先縠而殺之 盡滅其族 君子曰 惡之來也 己則取之 其先縠之謂乎 清丘之盟 晉以衛之救陳也 討焉 使人弗去 曰 罪無所歸 將加而師 孔達曰苟利社稷 請以我說 罪我之由 我則爲政 而亢大國之討 將以誰任 我則死之 인용목차
12년 經十有二年 春 葬陳靈公 楚子圍鄭 夏 六月 乙卯 晉荀林父帥師及楚子戰于邲 晉師敗績 秋 七月 冬 十有二月 戊寅 楚子滅蕭 晉人 宋人 衛人 曹人 同盟于清丘 宋師伐陳 衛人救陳 傳十二年 春 楚子圍鄭 旬有七日 鄭人卜行成不吉 卜臨于大宮 且巷出車 吉 國人大臨 守陴者皆哭 楚子退師 鄭人脩城 進復圍之 三月 克之 入自皇門 至於逵路 鄭伯肉袒牽羊以逆 曰 孤不天 不能事君 使君懷怒 以及敝邑 孤之罪也 敢不唯命是聽 其俘諸江南 以實海濱 亦唯命 其翦以賜諸侯 使臣妾之 亦唯命 若惠顧前好 徼福於厲 宣 桓 武 不泯其社稷 使改事君 夷於九縣 君之惠也 孤之願也 非所敢望也 敢布腹心 君實圖之 左右曰 不可許也 得國無赦 王曰 其君能下人 必能信用其民矣 庸可幾乎 退三十里 而許之平 潘尪入盟 子良出質 夏 六月 晉師救鄭 荀林父將中軍 先縠佐之 士會將上軍 郤克佐之 趙..
31년 經三十有一年 春 王正月 公在乾侯 季孫意如會晉荀躒於適歷 夏 四月 丁巳 薛伯穀卒 晉侯使荀躒唁公于乾侯 秋 葬薛獻公 冬 黑肱以濫來奔 十有二月 辛亥 朔 日有食之 傳三十一年 春 王正月 公在乾侯 言不能外內也 晉侯將以師納公 范獻子曰 若召季孫而不來 則信不臣矣 然後伐之 若何 晉人召季孫 獻子使私焉 曰 子必來 我受其無咎 季孫意如會晉荀躒于適歷 荀躒曰 寡君使躒謂吾子 何故出君 有君不事 周有常刑 子其圖之 季孫練冠麻衣跣行 伏而對曰 事君 臣之所不得也 敢逃刑命 君若以臣爲有罪 請囚于費 以待君之察也 亦唯君 若以先臣之故 不絕季氏 而賜之死 若弗殺弗亡 君之惠也 死且不朽 若得從君而歸 則固臣之願也 敢有異心 夏 四月 季孫從知伯如乾侯 子家子曰 君與之歸 一慚之不忍 而終身慚乎 公曰 諾 衆曰 在一言矣 君必逐之 荀躒以晉侯之命唁公 且曰 寡君使躒以君命討於意..
32년 經三十有二年 春 王正月 公在乾侯取闞 夏 吳伐越 秋 七月 冬 仲孫何忌會晉韓不信 齊高張 宋仲幾 衛世叔申 鄭國參 曹人 莒人 薛人 杞人 小邾人 城成周 十有二月 己未 公薨于乾侯 傳三十二年 春 王正月 公在乾侯 言不能外內 又不能用其人也 夏 吳伐越 始用師於越也 史墨曰 不及四十年 越其有吳乎 越得歲而吳伐之 必受其凶 秋 八月 王使富辛與石張如晉 請城成周 天子曰 天降禍于周 俾我兄弟 並有亂心 以爲伯父憂 我一二親昵甥舅 不皇啟處 於今十年 勤戍五年 余一人無日忘之 閔閔焉如農夫之望歲 懼以待時 伯父若肆大惠 復二文之業 弛周室之憂 徼文武之福 以固盟主 宣昭令名 則余一人有大願矣 昔成王合諸侯 城成周 以爲東都 崇文德焉 今我欲徼福假靈于成王 脩成周之城 俾戍人無勤 諸侯用寧 蝥賊遠屏 晉之力也 其委諸伯父 使伯父實重圖之 俾我一人 無徵怨于百姓 而伯父有榮 ..
정공(定公) (元年~十五年) 원년 經元年 春 王三月 晉人執宋仲幾于京師 夏 六月 癸亥 公之喪至自乾侯 戊辰 公卽位 秋 七月 癸巳 葬我君昭公 九月 大雩 立煬宮 冬 十月 隕霜殺菽 傳元年 春 王正月 辛巳 晉魏舒合諸侯之大夫于狄泉 將以城成周 魏子蒞政 衛彪傒曰 將建天子 而易位以令 非義也 大事奸義 必有大咎 晉不失諸侯 魏子其不免乎 是行也 魏獻子屬役於韓簡子 及原壽過 而田於大陸 焚焉 還 卒於甯 范獻子去其柏槨 以其未復命而田也 孟懿子會城成周 庚寅 栽 宋仲幾不受功曰 滕 薛 郳 吾役也 薛宰曰 宋爲無道 絕我小國於周 以我適楚 故我常從宋 晉文公爲踐土之盟曰 凡我同盟 各復舊職 若從踐土 若從宋亦唯命 仲幾曰 踐土固然 薛宰曰 薛之皇祖奚仲居薛 以爲夏車正 奚仲遷于邳 仲虺居薛 以爲湯左相 若復舊職 將承王官 何故以役諸侯 仲幾曰 三代各異物 薛焉得有舊 爲宋役..
2년 經二年 春 王正月 夏 五月 壬辰 雉門及兩觀災 秋 楚人伐吳 冬 十月 新作雉門及兩觀 傳二年 夏 四月 辛酉 鞏氏之群子弟賊簡公 桐叛楚 吳子使舒鳩氏誘楚人曰 以師臨我 我伐桐 爲我使之無忌 秋 楚囊瓦伐吳師于豫章 吳人見舟于豫章 而潛師于巢 冬 十月 吳軍楚師于豫章 敗之 遂圍巢 克之 獲楚公子繁 邾莊公與夷射姑飲酒 私出 閽乞肉焉 奪之杖以敲之 인용목차
3년 經三年 春 王正月 公如晉 至河乃復 二月 辛卯 邾子穿卒 夏 四月 秋 葬邾莊公 冬 仲孫何忌及邾子盟于拔 傳三年 春 二月 辛卯 邾子在門臺 臨廷 閽以缾水沃廷 邾子望見之 怒 閽曰 夷射姑旋焉 命執之 弗得 滋怒 自投于床 廢于鑪炭 爛遂卒 先葬以車五乘 殉五人 莊公卞急而好潔 故及是 秋 九月 鮮虞人敗晉師于平中 獲晉觀虎 恃其勇也 冬 盟于郯 脩邾好也 蔡昭侯爲兩佩與兩裘以如楚 獻一佩一裘於昭王 昭王服之 以享蔡侯 蔡侯亦服其一 子常欲之 弗與 三年止之 唐成公如楚 有兩肅爽馬 子常欲之 弗與 亦三年止之 唐人或相與謀 請代先從者 許之 飲先從者酒 醉之 竊馬而獻之子常 子常歸唐侯 自拘於司敗 曰 君以弄馬之故 隱君身 棄國家 群臣請相 夫人以償馬 必如之 唐侯曰 寡人之過也 二三子無辱 皆賞之 蔡人聞之 固請而獻佩于子常 子常朝見蔡侯之徒 命有司曰 蔡君之久也 官不共..
14년 經十有四年 春 衛公叔戌來奔 衛趙陽出奔宋 二月 辛巳 楚公子結 陳公孫佗人 帥師滅頓 以頓子牂歸 夏 衛北宮結來奔 五月 於越敗吳于檇李 吳子光卒 公會齊侯 衛侯 于牽 公至自會 秋 齊侯 宋公 會于洮 天王使石尙來歸脤 衛世子蒯瞶出奔宋 衛公孟彄出奔鄭 宋公之弟辰 自蕭來奔 大蒐于比蒲 邾子來會公 城莒父及霄 傳十四年 春 衛侯逐公叔戌與其黨 故趙陽奔宋 戌來奔 梁嬰父惡董安於謂知文子曰 不殺安於 使終爲政於趙氏 趙氏必得晉國 盍以其先發難也 討於趙氏 文子使告於趙孟曰 范中行氏雖信爲亂 安於則發之 是安於與謀亂也 晉國有命 始禍者死 二子旣伏其罪矣 敢以告 趙孟患之 安於曰 我死而晉國寧 趙氏定 將焉用生 人誰不死 吾死莫矣 乃縊而死 趙孟屍諸市 而告於知氏曰 主命戮罪人 安於旣伏其罪矣 敢以告 知伯從趙孟盟 而後趙氏定 祀安於於廟 頓子牂欲事晉 背楚而絕陳好 二月 楚滅..
15년 經十有五年 春 王正月 邾子來朝 鼷鼠食郊牛 牛死 改卜牛 二月 辛丑 楚子滅胡 以鬍子豹歸 夏 五月 辛亥郊 壬申 公薨于高寢 鄭罕達帥師伐宋 齊侯 衛侯 次於渠蒢 邾子來奔喪 秋 七月 壬申 姒氏卒 八月 庚辰 朔 日有食之 九月 滕子來會葬 丁巳 葬我君定公 雨不克葬 戊午 日下吳 乃克葬 辛巳 葬定姒 冬 城漆 傳十五年 春 邾隱公來朝 子貢觀焉 邾子執玉高 其容仰 公受玉卑 其容俯 子貢曰 以禮觀之 二君者皆有死亡焉 夫禮 死生存亡之體也 將左右周旋 進退俯仰 於是乎取之 朝祀喪戎 於是乎觀之 今正月相朝 而皆不度 心巳亡矣 嘉事不體 何以能久 高仰 驕也 卑俯 替也 驕近亂 替近疾 君爲主 其先亡乎 吳之入楚也 鬍子盡俘楚邑之近胡者 楚旣定 鬍子豹又不事楚 曰 存亡有命 事楚何爲 多取費焉 二月 楚滅胡 夏 五月 壬申 公薨 仲尼曰 賜不幸言而中 是使賜多言者也 鄭..
애공(哀公) (元年~二十七年) 원년 經元年 春 王正月 公卽位 楚子 陳侯 隨侯 許男 圍蔡 鼷鼠食郊牛 改卜牛 夏 四月 辛巳郊 秋 齊侯 衛侯 伐晉 冬 仲孫何忌帥師伐邾 傳元年 春 楚子圍蔡 報柏舉也 里而栽 廣丈 高倍 夫屯 晝夜九日 如子西之素 蔡人男女以辨 使疆于江汝之間 而還 蔡於是乎請遷于吳 吳王夫差敗越于夫椒 報檇李也 遂入越 越子以甲楯五千 保于會稽 使大夫種因吳大宰嚭以行成 吳子將許之 伍員曰 不可 臣聞之 樹德莫如滋 去疾莫如盡 昔有過澆 殺斟灌以伐斟鄩 滅夏后相 后緡方娠 逃出自竇 歸于有仍 生少康焉 爲仍牧正 惎澆能戒之 澆使椒求之 逃奔有虞 爲之庖正 以除其害 虞思於是妻之以二姚 而邑諸綸 有田一成 有衆一旅 能布其德 而兆其謀 以收夏衆 撫其官職 使女艾諜澆 使季杼誘豷 遂滅過戈 復禹之績 祀夏配天 不失舊物 今吳不如過 而越大於少康 或將豐之 不亦..
2년 經二年 春 王二月 季孫斯 叔孫州 仇仲孫何忌 帥師伐邾 取漷東田及沂西田 癸巳 叔孫州仇 仲孫何忌 及邾人盟于句繹 夏 四月 丙子 衛侯元卒 滕子來朝 晉趙鞅帥師納衛世子蒯瞶于戚 秋 八月 甲戌 晉趙鞅帥師 及鄭罕達帥師 戰于鐵 鄭師敗績 冬 十月 葬衛靈公 十有一月 蔡遷于州來 蔡殺其大夫公子駟 傳二年 春 伐邾 將伐絞 邾人愛其土 故賂以漷沂之田而受盟 初 衛侯遊于郊 子南僕 公曰 余無子 將立女 不對 他日又謂之 對曰 郢不足以辱社稷 君其改圖 君夫人在堂 三揖在下 君命祇辱 夏 衛靈公卒 夫人曰 命公子郢爲大子 君命也 對曰 郢異於他子 且君沒於吾手 若有之 郢必聞之 且亡人之子輒在 乃立輒 六月 乙酉 晉趙鞅納衛大子于戚 宵迷 陽虎曰 右河而南必至焉 使大子絻 八人衰絰 偽自衛逆者 告於門 哭而入 遂居之 秋 八月 齊人輸范氏粟 鄭子姚 子般 送之 士吉射逆之 趙鞅禦..