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건빵이랑 놀자
26. 진채(陳蔡) 사이에서 포위당했을 때 공자와 자공ㆍ자로와의 대화 孔子遷于蔡三歲, 吳伐陳. 楚救陳, 軍于城父. 聞孔子在陳蔡之閒, 楚使人聘孔子. 孔子將往拜禮, 陳蔡大夫謀曰: “孔子賢者, 所刺譏皆中諸侯之疾. 今者久留陳蔡之閒, 諸大夫所設行皆非仲尼之意. 今楚, 大國也, 來聘孔子. 孔子用於楚, 則陳蔡用事大夫危矣.” 於是乃相與發徒役圍孔子於野. 不得行, 絶糧. 從者病, 莫能興, 孔子講誦弦歌不衰. 子路慍見曰: “君子亦有窮乎?” 孔子曰: “君子固窮, 小人窮斯濫矣.” 子貢色作, 孔子曰: “賜, 爾以予爲多學而識之者與?” 曰: “然. 非與?” 孔子曰: “非也. 予一以貫之.” 孔子知弟子有慍心, 乃召子路而問曰: “詩云: ‘匪兕匪虎, 率彼曠野’. 吾道非邪? 吾何爲於此?” 子路曰: “意者吾未仁邪? 人之不我信也. 意者吾未知邪? 人..
43. 홍구를 중심으로 유방과 항우가 조약을 맺다 病愈, 西入關, 至櫟陽, 存問父老, 置酒, 梟故塞王欣頭櫟陽市. 留四日, 復如軍, 軍廣武, 關中兵益出. 當此時, 彭越將兵居梁地, 往來苦楚兵, 絶其糧食, 田橫往從之. 項羽數擊彭越等, 齊王信又進擊楚. 項羽恐, 乃與漢王約, 中分天下, 割鴻溝而西者爲漢, 鴻溝而東者爲楚. 項王歸漢王父母妻子, 軍中皆呼萬歲, 乃歸而別去. 해석 病愈, 西入關, 至櫟陽, 存問父老, 置酒, 梟故塞王欣頭櫟陽市. 병이 낫자 서쪽으로 관중(關中)으로 들어가 역양(櫟陽)에 이르러 나이 많은 어르신[父老]들에게 안부를 묻고[存問] 술을 베풀었으며 새왕(塞王)인 사마흔(司馬欣)의 머리를 역양(櫟陽)의 저자에서 효수했다. 留四日, 復如軍, 軍廣武, 關中兵益出. 4일을 체류(滯留)하고 다시 군막으로 가서 ..
35. 홍구를 중심으로 유방과 항우가 조약을 맺다 是時, 漢兵盛食多, 項王兵罷食絶. 漢遣陸賈說項王, 請太公, 項王弗聽. 漢王復使侯公往說項王, 項王乃與漢約, 中分天下, 割鴻溝以西者爲漢, 鴻溝而東者爲楚. 項王許之, 卽歸漢王父母妻子, 軍皆呼萬歲. 漢王乃封侯公爲平國君, 匿弗肯復見. 曰: “此天下辯士, 所居傾國, 故號爲平國君.” 項王已約, 乃引兵解而東歸. 해석 是時, 漢兵盛食多, 項王兵罷食絶. 이때에 한나라의 병사들은 기운이 넘치고 먹을 게 풍족했지만 항우의 병사들은 지친 데다 먹을 게 끊어졌다. 漢遣陸賈說項王, 請太公, 項王弗聽. 한나라는 육가(陸賈)를 보내 항우를 설득해 태공(太公)을 보내주길 청했지만 항우는 듣질 않았다. 漢王復使侯公往說項王, 項王乃與漢約, 中分天下, 割鴻溝以西者爲漢, 鴻溝而東者爲楚. 한나라..
8. 초나라 땅을 다스리려 급암을 회양태수로 삼다 居數年, 會更五銖錢, 民多盜鑄錢, 楚地尤甚. 上以爲淮陽, 楚地之郊, 乃召拜黯爲淮陽太守. 黯伏謝不受印, 詔數彊予, 然後奉詔. 詔召見黯, 黯爲上泣曰: “臣自以爲塡溝壑, 不複見陛下, 不意陛下複收用之. 臣常有狗馬病, 力不能任郡事, 臣願爲中郞, 出入禁闥, 補過拾遺, 臣之願也.” 上曰: “君薄淮陽邪? 吾今召君矣. 顧淮陽吏民不相得, 吾徒得君之重, 臥而治之.” 해석 居數年, 會更五銖錢, 民多盜鑄錢, 楚地尤甚. 몇 년을 살다보니 마침 오수전(五銖錢)으로 바꿨는데 백성들이 몰래 돈을 만들어내는 게 많았으며 초나라 지방이 더욱 심했다. 上以爲淮陽, 楚地之郊, 乃召拜黯爲淮陽太守. 한 무제(武帝)는 회양군(淮陽郡)이 초나라 땅의 국경[郊]이라 여겨 이에 급암을 불러 제배(除拜)..
60. 삼왕세가(三王世家) ‘大司馬臣去病昧死再拜上疏皇帝陛下: 陛下過聽, 使臣去病待罪行閒. 宜專邊塞之思慮, 暴骸中野無以報, 乃敢惟他議以干用事者, 誠見陛下憂勞天下, 哀憐百姓以自忘, 虧膳貶樂, 損郞員. 皇子賴天, 能勝衣趨拜, 至今無號位師傅官. 陛下恭讓不恤, 群臣私望, 不敢越職而言. 臣竊不勝犬馬心, 昧死願陛下詔有司, 因盛夏吉時定皇子位. 唯陛下幸察. 臣去病昧死再拜以聞皇帝陛下. 三月乙亥, 御史臣光守尙書令奏未央宮. 制曰: ‘下御史. 六年三月戊申朔, 乙亥, 御史臣光守尙書令ㆍ丞非, 下御史書到, 言: 丞相臣靑翟ㆍ御史大夫臣湯ㆍ太常臣充ㆍ大行令臣息ㆍ太子少傅臣安行宗正事昧死上言: 大司馬去病上疏曰: “陛下過聽, 使臣去病待罪行閒. 宜專邊塞之思慮, 暴骸中野無以報, 乃敢惟他議以干用事者, 誠見陛下憂勞天下, 哀憐百姓以自忘, 虧膳貶樂, 損郞員..
59. 오종세가(五宗世家) 孝景皇帝子凡十三人爲王, 而母五人, 同母者爲宗親. 栗姬子曰榮ㆍ德ㆍ閼于. 程姬子曰餘ㆍ非ㆍ端. 賈夫人子曰彭祖ㆍ勝. 唐姬子曰發. 王夫人兒姁子曰越ㆍ寄ㆍ乘ㆍ舜. 河閒獻王德, 以孝景帝前二年用皇子爲河閒王. 好儒學, 被服造次必於儒者. 山東諸儒多從之游. 二十六年卒, 子共王不害立. 四年卒, 子剛王基代立. 十二年卒, 子頃王授代立. 臨江哀王閼于, 以孝景帝前二年用皇子爲臨江王. 三年卒, 無後, 國除爲郡. 臨江閔王榮, 以孝景前四年爲皇太子, 四歲廢, 用故太子爲臨江王. 四年, 坐侵廟壖垣爲宮, 上徵榮. 榮行, 祖於江陵北門. 旣已上車, 軸折車廢. 江陵父老流涕竊言曰: ‘吾王不反矣! 榮至, 詣中尉府簿. 中尉郅都責訊王, 王恐, 自殺. 葬藍田. 燕數萬銜土置冢上, 百姓憐之. 榮最長, 死無後, 國除, 地入于漢, 爲南郡. 右..
58. 양효왕세가(梁孝王世家) 梁孝王武者, 孝文皇帝子也, 而與孝景帝同母. 母, 竇太后也. 孝文帝凡四男: 長子曰太子, 是爲孝景帝; 次子武; 次子參; 次子勝. 孝文帝卽位二年, 以武爲代王, 以參爲太原王, 以勝爲梁王. 二歲, 徙代王爲淮陽王. 以代盡與太原王, 號曰代王. 參立十七年, 孝文後二年卒, 謚爲孝王. 子登嗣立, 是爲代共王. 立二十九年, 元光二年卒. 子義立, 是爲代王. 十九年, 漢廣關, 以常山爲限, 而徙代王王淸河. 淸河王徙以元鼎三年也. 初, 武爲淮陽王十年, 而梁王勝卒, 謚爲梁懷王. 懷王最少子, 愛幸異於他子. 其明年, 徙淮陽王武爲梁王. 梁王之初王梁, 孝文帝之十二年也. 梁王自初王通歷已十一年矣. 梁王十四年, 入朝. 十七年, 十八年, 比年入朝, 留, 其明年, 乃之國. 二十一年, 入朝. 二十二年, 孝文帝崩. 二十四年,..
57. 강후주발세가(絳侯周勃世家) 絳侯周勃者, 沛人也. 其先卷人, 徙沛. 勃以織薄曲爲生, 常爲人吹簫給喪事, 材官引彊. 高祖之爲沛公初起, 勃以中涓從攻胡陵, 下方與. 方與反, 與戰, 卻適. 攻豐. 擊秦軍碭東. 還軍留及蕭. 復攻碭, 破之. 下下邑, 先登. 賜爵五大夫. 攻蒙ㆍ虞, 取之. 擊章邯車騎, 殿. 定魏地. 攻爰戚ㆍ東緡, 以往至栗, 取之. 攻齧桑, 先登. 擊秦軍阿下, 破之. 追至濮陽, 下甄城. 攻都關ㆍ定陶, 襲取宛朐, 得單父令. 夜襲取臨濟, 攻張, 以前至卷, 破之. 擊李由軍雍丘下. 攻開封, 先至城下爲多. 後章邯破殺項梁, 沛公與項羽引兵東如碭. 自初起沛還至碭, 一歲二月. 楚懷王封沛公號安武侯, 爲碭郡長. 沛公拜勃爲虎賁令, 以令從沛公定魏地. 攻東郡尉於城武, 破之. 擊王離軍, 破之. 攻長社, 先登. 攻潁陽ㆍ緱氏, ..
56. 진승상세가(陳丞相世家) 陳丞相平者, 陽武戶牖鄕人也. 少時家貧, 好讀書, 有田三十畝, 獨與兄伯居. 伯常耕田, 縱平使游學. 平爲人長[大]美色. 人或謂陳平曰: ‘貧何食而肥若是? 其嫂嫉平之不視家生產, 曰: ‘亦食糠覈耳. 有叔如此, 不如無有. 伯聞之, 逐其婦而棄之. 及平長, 可娶妻, 富人莫肯與者, 貧者平亦恥之. 久之, 戶牖富人有張負, 張負女孫五嫁而夫輒死, 人莫敢娶. 平欲得之. 邑中有喪, 平貧, 侍喪, 以先往後罷爲助. 張負旣見之喪所, 獨視偉平, 平亦以故後去. 負隨平至其家, 家乃負郭窮巷, 以獘席爲門, 然門外多有長者車轍. 張負歸, 謂其子仲曰: ‘吾欲以女孫予陳平. 張仲曰: ‘平貧不事事, 一縣中盡笑其所爲, 獨柰何予女乎? 負曰: ‘人固有好美如陳平而長貧賤者乎? 卒與女. 爲平貧, 乃假貸幣以聘, 予酒肉之資以內婦. 負誡其孫..
54. 조상국세가(曹相國世家) 平陽侯曹參者, 沛人也. 秦時爲沛獄掾, 而蕭何爲主吏, 居縣爲豪吏矣. 高祖爲沛公而初起也, 參以中涓從. 將擊胡陵ㆍ方與, 攻秦監公軍, 大破之. 東下薛, 擊泗水守軍薛郭西. 復攻胡陵, 取之. 徙守方與. 方與反爲魏, 擊之. 豐反爲魏, 攻之. 賜爵七大夫. 擊秦司馬夷軍碭東, 破之, 取碭ㆍ狐父ㆍ祁善置. 又攻下邑以西, 至虞, 擊章邯車騎. 攻爰戚及亢父, 先登. 遷爲五大夫. 北救阿, 擊章邯軍, 陷陳, 追至濮陽. 攻定陶, 取臨濟. 南救雍丘. 擊李由軍, 破之, 殺李由, 虜秦候一人. 秦將章邯破殺項梁也, 沛公與項羽引而東. 楚懷王以沛公爲碭郡長, 將碭郡兵. 於是乃封參爲執帛, 號曰建成君. 遷爲戚公, 屬碭郡. 其後從攻東郡尉軍, 破之成武南. 擊王離軍成陽南, 復攻之杠裏, 大破之. 追北, 西至開封, 擊趙賁軍, 破之,..
53. 소상국세가(蕭相國世家) 蕭相國何者, 沛豐人也. 以文無害爲沛主吏掾. 高祖爲布衣時, 何數以吏事護高祖. 高祖爲亭長, 常左右之. 高祖以吏繇咸陽, 吏皆送奉錢三, 何獨以五. 秦御史監郡者與從事, 常辨之. 何乃給泗水卒史事, 第一. 秦御史欲入言徵何, 何固請, 得毋行. 及高祖起爲沛公, 何常爲丞督事. 沛公至咸陽, 諸將皆爭走金帛財物之府分之, 何獨先入收秦丞相御史律令圖書藏之. 沛公爲漢王, 以何爲丞相. 項王與諸侯屠燒咸陽而去. 漢王所以具知天下阸塞, 戶口多少, 彊弱之處, 民所疾苦者, 以何具得秦圖書也. 何進言韓信, 漢王以信爲大將軍. 語在淮陰侯事中. 漢王引兵東定三秦, 何以丞相留收巴蜀, 填撫諭告, 使給軍食. 漢二年, 漢王與諸侯擊楚, 何守關中, 侍太子, 治櫟陽. 爲法令約束, 立宗廟社稷宮室縣邑, 輒奏上, 可, 許以從事; 卽不及奏上, 輒..
52. 제도혜왕세가(齊悼惠王世家) 齊悼惠王劉肥者, 高祖長庶男也. 其母外婦也, 曰曹氏. 高祖六年, 立肥爲齊王, 食七十城, 諸民能齊言者皆予齊王. 齊王, 孝惠帝兄也. 孝惠帝二年, 齊王入朝. 惠帝與齊王燕飮, 亢禮如家人. 呂太后怒, 且誅齊王. 齊王懼不得脫, 乃用其內史勳計, 獻城陽郡, 以爲魯元公主湯沐邑. 呂太后喜, 乃得辭就國. 悼惠王卽位十三年, 以惠帝六年卒. 子襄立, 是爲哀王. 哀王元年, 孝惠帝崩, 呂太后稱制, 天下事皆決於高后. 二年, 高后立其兄子酈侯呂臺爲呂王, 割齊之濟南郡爲呂王奉邑. 哀王三年, 其弟章入宿衛於漢, 呂太后封爲朱虛侯, 以呂祿女妻之. 後四年, 封章弟興居爲東牟侯, 皆宿衛長安中. 哀王八年, 高后割齊瑯邪郡立營陵侯劉澤爲瑯邪王. 其明年, 趙王友入朝, 幽死于邸. 三趙王皆廢. 高后立諸呂諸呂爲三王, 擅權用事. 朱虛侯年..
51. 형연세가(荊燕世家) 荊王劉賈者, 諸劉, 不知其何屬初起時. 漢王元年, 還定三秦, 劉賈爲將軍, 定塞地, 從東擊項籍. 漢四年, 漢王之敗成皋, 北渡河, 得張耳ㆍ韓信軍, 軍修武, 深溝高壘, 使劉賈將二萬人, 騎數百, 渡白馬津入楚地, 燒其積聚, 以破其業, 無以給項王軍食. 已而楚兵擊劉賈, 賈輒壁不肯與戰, 而與彭越相保. 漢五年, 漢王追項籍至固陵, 使劉賈南渡淮圍壽春. 還至, 使人閒招楚大司馬周殷. 周殷反楚, 佐劉賈舉九江, 迎武王黥布兵, 皆會垓下, 共擊項籍. 漢王因使劉賈將九江兵, 與太尉盧綰西南擊臨江王共尉. 共尉已死, 以臨江爲南郡. 漢六年春, 會諸侯於陳, 廢楚王信, 囚之, 分其地爲二國. 當是時也, 高祖子幼, 昆弟少, 又不賢, 欲王同姓以鎭天下, 乃詔曰: ‘將軍劉賈有功, 及擇子弟可以爲王者. 群臣皆曰: ‘立劉賈爲荊王, 王淮東..
50. 초원왕세가(楚元王世家) 楚元王劉交者, 高祖之同母少弟也, 字游. 高祖兄弟四人, 長兄伯, 伯蚤卒. 始高祖微時, 嘗辟事, 時時與賓客過巨嫂食. 嫂厭叔, 叔與客來, 嫂詳爲羹盡, 櫟釜, 賓客以故去. 已而視釜中尙有羹, 高祖由此怨其嫂. 及高祖爲帝, 封昆弟, 而伯子獨不得封. 太上皇以爲言, 高祖曰: ‘某非忘封之也, 爲其母不長者耳. 於是乃封其子信爲羹頡侯. 而王次兄仲於代. 高祖六年, 已禽楚王韓信於陳, 乃以弟交爲楚王, 都彭城. 卽位二十三年卒, 子夷王郢立. 夷王四年卒, 子王戊立. 王戊立二十年, 冬, 坐爲薄太后服私姦, 削東海郡. 春, 戊與吳王合謀反, 其相張尙ㆍ太傅趙夷吾諫, 不聽. 戊則殺尙ㆍ夷吾, 起兵與吳西攻梁, 破棘壁. 至昌邑南, 與漢將周亞夫戰. 漢絕吳楚糧道, 士卒饑, 吳王走, 楚王戊自殺, 軍遂降漢. 漢已平吳楚, 孝景帝欲以..
49. 외척세가(外戚世家) 自古受命帝王及繼體守文之君, 非獨內德茂也, 蓋亦有外戚之助焉. 夏之興也以涂山, 而桀之放也以末喜. 殷之興也以有娀, 紂之殺也嬖妲己. 周之興也以姜原及大任, 而幽王之禽也淫於褒姒. 故易基乾坤, 詩始關雎, 書美釐降, 春秋譏不親迎. 夫婦之際, 人道之大倫也. 禮之用, 唯婚姻爲兢兢. 夫樂調而四時和, 陰陽之變, 萬物之統也. 可不愼與? 人能弘道, 無如命何. 甚哉, 妃匹之愛, 君不能得之於臣, 父不能得之於子, 況卑下乎! 旣驩合矣, 或不能成子姓; 能成子姓矣, 或不能要其終: 豈非命也哉? 孔子罕稱命, 蓋難言之也. 非通幽明之變, 惡能識乎性命哉? 太史公曰: 秦以前尙略矣, 其詳靡得而記焉. 漢興, 呂娥姁爲高祖正后, 男爲太子. 及晚節色衰愛弛, 而戚夫人有寵, 其子如意幾代太子者數矣. 及高祖崩, 呂后夷戚氏, 誅趙王, 而高祖..
48. 진섭세가(陳涉世家) 陳勝者, 陽城人也, 字涉. 吳廣者, 陽夏人也, 字叔. 陳涉少時, 嘗與人傭耕, 輟耕之壟上, 悵恨久之, 曰: ‘茍富貴, 無相忘. 庸者笑而應曰: ‘若爲庸耕, 何富貴也? 陳涉太息曰: ‘嗟乎, 燕雀安知鴻鵠之志哉! 二世元年七月, 發閭左適戍漁陽, 九百人屯大澤鄕. 陳勝ㆍ吳廣皆次當行, 爲屯長. 會天大雨, 道不通, 度已失期. 失期, 法皆斬. 陳勝ㆍ吳廣乃謀曰: ‘今亡亦死, 舉大計亦死, 等死, 死國可乎? 陳勝曰: ‘天下苦秦久矣. 吾聞二世少子也, 不當立, 當立者乃公子扶蘇. 扶蘇以數諫故, 上使外將兵. 今或聞無罪, 二世殺之. 百姓多聞其賢, 未知其死也. 項燕爲楚將, 數有功, 愛士卒, 楚人憐之. 或以爲死, 或以爲亡. 今誠以吾衆詐自稱公子扶蘇ㆍ項燕, 爲天下唱, 宜多應者. 吳廣以爲然. 乃行卜. 卜者知其指意, 曰:..
55. 유후세가(留侯世家) 留侯張良者, 其先韓人也. 大父開地, 相韓昭侯ㆍ宣惠王ㆍ襄哀王. 父平, 相釐王ㆍ悼惠王. 悼惠王二十三年, 平卒. 卒二十歲, 秦滅韓. 良年少, 未宦事韓. 韓破, 良家僮三百人, 弟死不葬, 悉以家財求客刺秦王, 爲韓報仇, 以大父ㆍ父五世相韓故. 良嘗學禮淮陽. 東見倉海君. 得力士, 爲鐵椎重百二十斤. 秦皇帝東游, 良與客狙擊秦皇帝博浪沙中, 誤中副車. 秦皇帝大怒, 大索天下, 求賊甚急, 爲張良故也. 良乃更名姓, 亡匿下邳. 良嘗閒從容步游下邳圯上, 有一老父, 衣褐, 至良所, 直墮其履圯下, 顧謂良曰: ‘孺子, 下取履! 良鄂然, 欲毆之. 爲其老, 彊忍, 下取履. 父曰: ‘履我! 良業爲取履, 因長跪履之. 父以足受, 笑而去. 良殊大驚, 隨目之. 父去里所, 復還, 曰: ‘孺子可教矣. 後五日平明, 與我會此. 良因怪..
46. 전경중완세가(田敬仲完世家) 陳完者, 陳厲公他之子也. 完生, 周太史過陳, 陳厲公使卜完, 卦得觀之否: ‘是爲觀國之光, 利用賓于王. 此其代陳有國乎? 不在此而在異國乎? 非此其身也, 在其子孫. 若在異國, 必姜姓. 姜姓, 四嶽之後. 物莫能兩大, 陳衰, 此其昌乎? 厲公者, 陳文公少子也, 其母蔡女. 文公卒, 厲公兄鮑立, 是爲桓公. 桓公與他異母. 及桓公病, 蔡人爲他殺桓公鮑及太子免而立他, 爲厲公. 厲公旣立, 娶蔡女. 蔡女淫於蔡人, 數歸, 厲公亦數如蔡. 桓公之少子林怨厲公殺其父與兄, 乃令蔡人誘厲公而殺之. 林自立, 是爲莊公. 故陳完不得立, 爲陳大夫. 厲公之殺, 以淫出國, 故“春秋”曰: ‘蔡人殺陳他’, 罪之也. 莊公卒, 立弟杵臼, 是爲宣公. 宣公[二]十一年, 殺其太子御寇. 御寇與完相愛, 恐禍及己, 完故奔齊. 齊桓公欲使爲卿..
45. 한세가(韓世家) 韓之先與周同姓, 姓姬氏. 其後苗裔事晉, 得封於韓原, 曰韓武子. 武子後三世有韓厥, 從封姓爲韓氏. 韓厥, 晉景公之三年, 晉司寇屠岸賈將作亂, 誅靈公之賊趙盾. 趙盾已死矣, 欲誅其子趙朔. 韓厥止賈, 賈不聽. 厥告趙朔令亡. 朔曰: ‘子必能不絕趙祀, 死不恨矣. 韓厥許之. 及賈誅趙氏, 厥稱疾不出. 程嬰ㆍ公孫杵臼之藏趙孤趙武也, 厥知之. 景公十一年, 厥與郤克將兵八百乘伐齊, 敗齊頃公于鞍, 獲逢丑父. 於是晉作六卿, 而韓厥在一卿之位, 號爲獻子. 晉景公十七年, 病, 卜大業之不遂者爲祟. 韓厥稱趙成季之功, 今後無祀, 以感景公. 景公問曰: ‘尙有世乎? 厥於是言趙武, 而復與故趙氏田邑, 續趙氏祀. 晉悼公之(十)[七]年, 韓獻子老. 獻子卒, 子宣子代. 宣字徙居州. 晉平公十四年, 吳季札使晉, 曰: ‘晉國之政卒歸於韓ㆍ魏..
44. 위세가(魏世家) 魏之先, 畢公高之後也. 畢公高與周同姓. 武王之伐紂, 而高封於畢, 於是爲畢姓. 其後絕封, 爲庶人, 或在中國, 或在夷狄. 其苗裔曰畢萬, 事晉獻公. 獻公之十六年, 趙夙爲御, 畢萬爲右, 以伐霍ㆍ耿ㆍ魏, 滅之. 以耿封趙夙, 以魏封畢萬, 爲大夫. 卜偃曰: ‘畢萬之後必大矣, 萬, 滿數也; 魏, 大名也. 以是始賞, 天開之矣, 天子曰兆民, 諸侯曰萬民. 今命之大, 以從滿數, 其必有衆. 初, 畢萬卜事晉, 遇屯之比. 辛廖占之, 曰: ‘吉. 屯固比入, 吉孰大焉, 其必蕃昌. 畢萬封十一年, 晉獻公卒, 四子爭更立, 晉亂. 而畢萬之世彌大, 從其國名爲魏氏. 生武子. 魏武子以魏諸子事晉公子重耳. 晉獻公之二十一年, 武子從重耳出亡. 十九年反, 重耳立爲晉文公, 而令魏武子襲魏氏之後封, 列爲大夫, 治於魏. 生悼子. 魏悼子徙治..
43. 조세가(趙世家) 趙氏之先, 與秦共祖. 至中衍, 爲帝大戊御. 其後世蜚廉有子二人, 而命其一子曰惡來, 事紂, 爲周所殺, 其後爲秦. 惡來弟曰季勝, 其後爲趙. 季勝生孟增. 孟增幸於周成王, 是爲宅皋狼. 皋狼生衡父, 衡父生造父. 造父幸於周繆王. 造父取驥之乘匹, 與桃林盜驪ㆍ驊騮ㆍ綠耳, 獻之繆王. 繆王使造父御, 西巡狩, 見西王母, 樂之忘歸. 而徐偃王反, 繆王日馳千里馬, 攻徐偃王, 大破之. 乃賜造父以趙城, 由此爲趙氏. 自造父已下六世至奄父, 曰公仲, 周宣王時伐戎, 爲御. 及千畝戰, 奄父脫宣王. 奄父生叔帶. 叔帶之時, 周幽王無道, 去周如晉, 事晉文侯, 始建趙氏于晉國. 自叔帶以下, 趙宗益興, 五世而(生)[至]趙夙. 趙夙, 晉獻公之十六年伐霍ㆍ魏ㆍ耿, 而趙夙爲將伐霍. 霍公求奔齊. 晉大旱, 卜之, 曰: ‘霍太山爲祟’. 使趙夙..
42. 정세가(鄭世家) 鄭桓公友者, 周厲王少子而宣王庶弟也. 宣王立二十二年, 友初封于鄭. 封三十三歲, 百姓皆便愛之. 幽王以爲司徒. 和集周民, 周民皆說, 河雒之閒, 人便思之. 爲司徒一歲, 幽王以褒后故, 王室治多邪, 諸侯或畔之. 於是桓公問太史伯曰: ‘王室多故, 予安逃死乎? 太史伯對曰: ‘獨雒之東土, 河濟之南可居. 公曰: ‘何以? 對曰: ‘地近虢ㆍ鄶, 虢ㆍ鄶之君貪而好利, 百姓不附. 今公爲司徒, 民皆愛公, 公誠請居之, 虢ㆍ鄶之君見公方用事, 輕分公地. 公誠居之, 虢ㆍ鄶之民皆公之民也. 公曰: ‘吾欲南之江上, 何如? 對曰: ‘昔祝融爲高辛氏火正, 其功大矣, 而其於周未有興者, 楚其後也. 周衰, 楚必興. 興, 非鄭之利也. 公曰: ‘吾欲居西方, 何如? 對曰: ‘其民貪而好利, 難久居. 公曰: ‘周衰, 何國興者? 對曰: ‘齊ㆍ秦..
41. 월왕구천세가(越王句踐世家) 越王句踐, 其先禹之苗裔, 而夏后帝少康之庶子也. 封於會稽, 以奉守禹之祀. 文身斷發, 披草萊而邑焉. 後二十餘世, 至於允常. 允常之時, 與吳王闔廬戰而相怨伐. 允常卒, 子句踐立, 是爲越王. 元年, 吳王闔廬聞允常死, 乃興師伐越. 越王句踐使死士挑戰, 三行, 至吳陳, 呼而自剄. 吳師觀之, 越因襲擊吳師, 吳師敗於檇李, 射傷吳王闔廬. 闔廬且死, 告其子夫差曰: ‘必毋忘越. 三年, 句踐聞吳王夫差日夜勒兵, 且以報越, 越欲先吳未發往伐之. 范蠡諫曰: ‘不可. 臣聞兵者凶器也, 戰者逆德也, 爭者事之末也. 陰謀逆德, 好用凶器, 試身於所末, 上帝禁之, 行者不利. 越王曰: ‘吾已決之矣. 遂興師. 吳王聞之, 悉發精兵擊越, 敗之夫椒. 越王乃以餘兵五千人保棲於會稽. 吳王追而圍之. 越王謂范蠡曰: ‘以不聽子故至於此..
40. 초세가(楚世家) 楚之先祖出自帝顓頊高陽. 高陽者, 黃帝之孫, 昌意之子也. 高陽生稱, 稱生卷章, 卷章生重黎. 重黎爲帝嚳高辛居火正, 甚有功, 能光融天下, 帝嚳命曰祝融. 共工氏作亂, 帝嚳使重黎誅之而不盡. 帝乃以庚寅日誅重黎, 而以其弟吳回爲重黎後, 復居火正, 爲祝融. 吳回生陸終. 陸終生子六人, 坼剖而產焉. 其長一曰昆吾; 二曰參胡; 三曰彭祖; 四曰會人; 五曰曹姓; 六曰季連, 羋姓, 楚其後也. 昆吾氏, 夏之時嘗爲侯伯, 桀之時湯滅之. 彭祖氏, 殷之時嘗爲侯伯, 殷之末世滅彭祖氏. 季連生附沮, 附沮生穴熊. 其後中微, 或在中國, 或在蠻夷, 弗能紀其世. 周文王之時, 季連之苗裔曰鬻熊. 鬻熊子事文王, 蚤卒. 其子曰熊麗. 熊麗生熊狂, 熊狂生熊繹. 熊繹當周成王之時, 舉文ㆍ武勤勞之後嗣, 而封熊繹於楚蠻, 封以子男之田, 姓羋氏, 居丹..
39. 진세가(晉世家) 晉唐叔虞者, 周武王子而成王弟. 初, 武王與叔虞母會時, 夢天謂武王曰: ‘余命女生子, 名虞, 余與之唐. 及生子, 文在其手曰: ‘虞’, 故遂因命之曰虞. 武王崩, 成王立, 唐有亂, 周公誅滅唐. 成王與叔虞戲, 削桐葉爲珪以與叔虞, 曰: ‘以此封若. 史佚因請擇日立叔虞. 成王曰: ‘吾與之戲耳. 史佚曰: ‘天子無戲言. 言則史書之, 禮成之, 樂歌之. 於是遂封叔虞於唐. 唐在河ㆍ汾之東, 方百里, 故曰唐叔虞. 姓姬氏, 字子于. 唐叔子燮, 是爲晉侯. 晉侯子寧族, 是爲武侯. 武侯之子服人, 是爲成侯. 成侯子福, 是爲厲侯. 厲侯之子宜臼, 是爲靖侯. 靖侯已來, 年紀可推. 自唐叔至靖侯五世, 無其年數. 靖侯十七年, 周厲王迷惑暴虐, 國人作亂, 厲王出奔于彘, 大臣行政, 故曰: ‘共和’. 十八年, 靖侯卒, 子釐侯司徒立. ..
38. 송미자세가(宋微子世家) 微子開者, 殷帝乙之首子而帝紂之庶兄也. 紂旣立, 不明, 淫亂於政, 微子數諫, 紂不聽. 及祖伊以周西伯昌之修德, 滅黎國, 懼禍至, 以告紂. 紂曰: ‘我生不有命在天乎? 是何能爲! 於是微子度紂終不可諫, 欲死之, 及去, 未能自決, 乃問於太師ㆍ少師曰: ‘殷不有治政, 不治四方. 我祖遂陳於上, 紂沈湎於酒, 婦人是用, 亂敗湯德於下. 殷旣小大好草竊姦宄, 卿士師師非度, 皆有罪辜, 乃無維獲, 小民乃并興, 相爲敵讎. 今殷其典喪! 若涉水無津涯. 殷遂喪, 越至于今. 曰: ‘太師, 少師, 我其發出往? 吾家保于喪? 今女無故告予, 顛躋, 如之何其? 太師若曰: ‘王子, 天篤下菑亡殷國, 乃毋畏畏, 不用老長. 今殷民乃陋淫神祇之祀. 今誠得治國, 國治身死不恨. 爲死, 終不得治, 不如去. 遂亡. 箕子者, 紂親戚也. 紂..
37. 위강숙세가(衛康叔世家) 衛康叔名封, 周武王同母少弟也. 其次尙有冉季, 冉季最少. 武王已克殷紂, 復以殷餘民封紂子武庚祿父, 比諸侯, 以奉其先祀勿絕. 爲武庚未集, 恐其有賊心, 武王乃令其弟管叔ㆍ蔡叔傅相武庚祿父, 以和其民. 武王旣崩, 成王少. 周公旦代成王治, 當國. 管叔ㆍ蔡叔疑周公, 乃與武庚祿父作亂, 欲攻成周. 周公旦以成王命興師伐殷, 殺武庚祿父ㆍ管叔, 放蔡叔, 以武庚殷餘民封康叔爲衛君, 居河ㆍ淇閒故商墟. 周公旦懼康叔齒少, 乃申告康叔曰: ‘必求殷之賢人君子長者, 問其先殷所以興, 所以亡, 而務愛民. 告以紂所以亡者以淫於酒, 酒之失, 婦人是用, 故紂之亂自此始. 爲梓材, 示君子可法則. 故謂之“康誥”ㆍ“酒誥”ㆍ“梓材”以命之. 康叔之國, 旣以此命, 能和集其民, 民大說. 成王長, 用事, 舉康叔爲周司寇, 賜衛寶祭器, 以章有德...
36. 진기세가(陳杞世家) 陳胡公滿者, 虞帝舜之後也. 昔舜爲庶人時, 堯妻之二女, 居于媯汭, 其後因爲氏姓, 姓媯氏. 舜已崩, 傳禹天下, 而舜子商均爲封國. 夏后之時, 或失或續. 至于周武王克殷紂, 乃復求舜後, 得媯滿, 封之於陳, 以奉帝舜祀, 是爲胡公. 胡公卒, 子申公犀侯立. 申公卒, 弟相公皋羊立. 相公卒, 立申公子突, 是爲孝公. 孝公卒, 子愼公圉戎立. 愼公當周厲王時. 愼公卒, 子幽公寧立. 幽公十二年, 周厲王奔于彘. 二十三年, 幽公卒, 子釐公孝立. 釐公六年, 周宣王卽位. 三十六年, 釐公卒, 子武公靈立. 武公十五年卒, 子夷公說立. 是歲, 周幽王卽位. 夷公三年卒, 弟平公燮立. 平公七年, 周幽王爲犬戎所殺, 周東徙. 秦始列爲諸侯. 二十三年, 平公卒, 子文公圉立. 文公元年, 取蔡女, 生子佗. 十年, 文公卒, 長子桓公鮑立..
35. 관채세가(管蔡世家) 管叔鮮ㆍ蔡叔度者, 周文王子而武王弟也. 武王同母兄弟十人. 母曰太姒, 文王正妃也. 其長子曰伯邑考, 次曰武王發, 次曰管叔鮮, 次曰周公旦, 次曰蔡叔度, 次曰曹叔振鐸, 次曰成叔武, 次曰霍叔處, 次曰康叔封, 次曰冉季載. 冉季載最少. 同母昆弟十人, 唯發ㆍ旦賢, 左右輔文王, 故文王舍伯邑考而以發爲太子. 及文王崩而發立, 是爲武王. 伯邑考旣已前卒矣. 武王已克殷紂, 平天下, 封功臣昆弟. 於是封叔鮮於管, 封叔度於蔡: 二人相紂子武庚祿父, 治殷遺民. 封叔旦於魯而相周, 爲周公. 封叔振鐸於曹, 封叔武於成, 封叔處於霍. 康叔封ㆍ冉季載皆少, 未得封. 武王旣崩, 成王少, 周公旦專王室. 管叔ㆍ蔡叔疑周公之爲不利於成王, 乃挾武庚以作亂. 周公旦承成王命伐誅武庚, 殺管叔, 而放蔡叔, 遷之, 與車十乘, 徒七十人從. 而分殷餘民..
34. 연소공세가(燕召公世家) 召公奭與周同姓, 姓姬氏. 周武王之滅紂, 封召公於北燕. 其在成王時, 召王爲三公: 自陜以西, 召公主之; 自陜以東, 周公主之. 成王旣幼, 周公攝政, 當國踐祚, 召公疑之, 作君奭. 君奭不說周公. 周公乃稱‘湯時有伊尹, 假于皇天; 在太戊時, 則有若伊陟ㆍ臣扈, 假于上帝, 巫咸治王家; 在祖乙時, 則有若巫賢; 在武丁時, 則有若甘般: 率維茲有陳, 保乂有殷’. 於是召公乃說. 召公之治西方, 甚得兆民和. 召公巡行鄕邑, 有棠樹, 決獄政事其下, 自侯伯至庶人各得其所, 無失職者. 召公卒, 而民人思召公之政, 懷棠樹不敢伐, 哥詠之, 作甘棠之詩. 自召公已下九世至惠侯. 燕惠侯當周厲王奔彘, 共和之時. 惠侯卒, 子釐侯立. 是歲, 周宣王初卽位. 釐侯二十一年, 鄭桓公初封於鄭. 三十六年, 釐侯卒, 子頃侯立. 頃侯二十年,..
33. 노주공세가(魯周公世家) 周公旦者, 周武王弟也. 自文王在時, 旦爲子孝, 篤仁, 異於群子. 及武王卽位, 旦常輔翼武王, 用事居多. 武王九年, 東伐至盟津, 周公輔行. 十一年, 伐紂, 至牧野, 周公佐武王, 作牧誓. 破殷, 入商宮. 已殺紂, 周公把大鉞, 召公把小鉞, 以夾武王, 釁社, 告紂之罪于天, 及殷民. 釋箕子之囚. 封紂子武庚祿父, 使管叔ㆍ蔡叔傅之, 以續殷祀. 遍封功臣同姓戚者. 封周公旦於少昊之虛曲阜, 是爲魯公. 周公不就封, 留佐武王. 武王克殷二年, 天下未集, 武王有疾, 不豫, 群臣懼, 太公ㆍ召公乃繆卜. 周公曰: ‘未可以戚我先王. 周公於是乃自以爲質, 設三壇, 周公北面立, 戴璧秉圭, 告于太王ㆍ王季ㆍ文王. 史策祝曰: ‘惟爾元孫王發, 勤勞阻疾. 若爾三王是有負子之責於天, 以旦代王發之身. 旦巧能, 多材多藝, 能事鬼神..
32. 제태공세가(齊太公世家) 太公望呂尙者, 東海上人. 其先祖嘗爲四嶽, 佐禹平水土甚有功. 虞夏之際封於呂, 或封於申, 姓姜氏. 夏商之時, 申ㆍ呂或封枝庶子孫, 或爲庶人, 尙其後苗裔也. 本姓姜氏, 從其封姓, 故曰呂尙. 呂尙蓋嘗窮困, 年老矣, 以漁釣奸周西伯. 西伯將出獵, 卜之, 曰: ‘所獲非龍非彨非虎非羆; 所獲霸王之輔’. 於是周西伯獵, 果遇太公於渭之陽, 與語大說, 曰: ‘自吾先君太公曰“當有聖人適周, 周以興”. 子眞是邪? 吾太公望子久矣. 故號之曰: ‘太公望’, 載與俱歸, 立爲師. 或曰, 太公博聞, 嘗事紂. 紂無道, 去之. 游說諸侯, 無所遇, 而卒西歸周西伯. 或曰, 呂尙處士, 隱海濱. 周西伯拘羑里, 散宜生ㆍ閎夭素知而招呂尙. 呂尙亦曰: ‘吾聞西伯賢, 又善養老, 盍往焉’. 三人者爲西伯求美女奇物, 獻之於紂, 以贖西伯. ..
31. 오태백세가(吳太伯世家) 吳太伯, 太伯弟仲雍, 皆周太王之子, 而王季歷之兄也. 季歷賢, 而有聖子昌, 太王欲立季歷以及昌, 於是太佰ㆍ仲雍二人乃奔荊蠻, 文身斷發, 示不可用, 以避季歷. 季歷果立, 是爲王季, 而昌爲文王. 太伯之奔荊蠻, 自號句吳. 荊蠻義之, 從而歸之千餘家, 立爲吳太伯. 太伯卒, 無子, 弟仲雍立, 是爲吳仲雍. 仲雍卒, 子季簡立. 季簡卒, 子叔達立. 叔達卒, 子周章立. 是時周武王克殷, 求太伯ㆍ仲雍之後, 得周章. 周章已君吳, 因而封之. 乃封周章弟虞仲於周之北故夏虛, 是爲虞仲, 列爲諸侯. 周章卒, 子熊遂立, 熊遂卒, 子柯相立. 柯相卒, 子彊鳩夷立. 彊鳩夷卒, 子餘橋疑吾立. 餘橋疑吾卒, 子柯盧立. 柯盧卒, 子周繇立. 周繇卒, 子屈羽立. 屈羽卒, 子夷吾立. 夷吾卒, 子禽處立. 禽處卒, 子轉立. 轉卒, 子頗..
3. 예물은 검소한데 욕망은 사치스럽다 威王八年, 楚大發兵加齊. 齊王使淳於髡之趙請救兵, 齎金百斤, 車馬十駟. 淳於髡仰天大笑, 冠纓索絶. 王曰: “先生少之乎?” 髡曰: “何敢!” 王曰: “笑豈有說乎?” 髡曰: “今者臣從東方來, 見道傍有禳田者, 操一豚蹄, 酒一盂, 祝曰: ‘甌窶滿篝, 汚邪滿車, 五穀蕃熟, 穰穰滿家.’ 臣見其所持者狹而所欲者奢, 故笑之.” 於是齊威王乃益齎黃金千溢, 白璧十雙, 車馬百駟. 髡辭而行, 至趙. 趙王與之精兵十萬, 革車千乘. 楚聞之, 夜引兵而去. 해석 威王八年, 楚大發兵加齊. 위왕 8년에 초나라가 크게 병사를 일으켜 제나라를 공격했다. 齊王使淳於髡之趙請救兵, 제나라 왕은 순우곤에게 조나라에 가서 구원병을 청하러 齎金百斤, 車馬十駟. 금 100근과 사두마차 10대를 가지고 가게 했다. 淳於髡..
1. 파군과 촉군의 오랑캐 상황과 장교란 인물 西南夷君長以什數, 夜郞最大; 其西靡莫之屬以什數, 滇最大; 自滇以北君長以什數, 邛都最大, 此皆魋結, 耕田, 有邑聚. 其外西自同師以東, 北至楪楡, 名爲嶲ㆍ昆明, 皆編髮, 隨畜遷徙, 毋常處, 毋君長, 地方可數千里. 自嶲以東北, 君長以什數, 徙ㆍ筰都最大; 自筰以東北, 君長以什數, 冉駹最大. 其俗或士箸, 或移徙, 在蜀之西. 自冉駹以東北, 君長以什數, 白馬最大, 皆氐類也. 此皆巴蜀西南外蠻夷也. 始楚威王時, 使將軍莊蹻將兵循江上, 略巴ㆍ蜀黔中以西. 莊蹻者, 故楚莊王苗裔也. 蹻至滇池, 地方三百里, 旁平地, 肥饒數千里, 以兵威定屬楚. 欲歸報, 會秦擊奪楚巴ㆍ黔中郡, 道塞不通, 因還, 以其衆王滇, 變服, 從其俗, 以長之. 해석 西南夷君長以什數, 夜郞最大; 서쪽 남이의 군장은 열 ..
4. 공자로 인해 백이와 숙제가 유명해지다 子曰: “道不同不相爲謀”, 亦各從其志也. 故曰: “富貴如可求, 雖執鞭之士, 吾亦爲之. 如不可求, 從吾所好”. “歲寒, 然後知松柏之後凋”. 擧世混濁, 淸士乃見. 豈以其重若彼, 其輕若此哉? “君子疾沒世而名不稱焉.” 賈子曰: “貪夫徇財, 烈士徇名, 誇者死權, 衆庶馮生.” “同明相照, 同類相求.” “雲從龍, 風從虎, 聖人作而萬物睹.” 伯夷ㆍ叔齊雖賢, 得夫子而名益彰, 顔淵雖篤學, 附驥尾而行益顯. 巖穴之士, 趣舍有時若此, 類名堙滅而不稱, 悲夫! 閭巷之人, 欲砥行立名者, 非附靑雲之士, 惡能施於後世哉? 해석 子曰: “道不同不相爲謀”, 공자께서 “도가 같지 않으면 서로 도모하지 못한다.”고 말씀하셨는데 亦各從其志也. 또한 각각 의지를 따라야 한다는 것이다. 故曰: “富貴如可求,..
3. 알쏭달송하기만 한 천도 或曰: “天道無親, 常與善人.” 若伯夷ㆍ叔齊, 可謂善人者非邪? 積仁絜行如此而餓死! 且七十子之徒, 仲尼獨薦顔淵爲好學. 然回也屢空, 糟糠不厭, 而卒蚤夭. 天之報施善人, 其何如哉? 盜蹠日殺不辜, 肝人之肉, 暴戾恣睢, 聚黨數千人橫行天下, 竟以壽終. 是遵何德哉? 此其尤大彰明較著者也. 若至近世, 操行不軌, 專犯忌諱, 而終身逸樂, 富厚累世不絶. 或擇地而蹈之, 時然後出言, 行不由徑, 非公正不發憤, 而遇禍災者, 不可勝數也. 余甚惑焉, 儻所謂天道, 是邪非邪? 해석 或曰: “天道無親, 常與善人.” 어떤 이는 “하느님의 도리는 친함이 없어 항상 착한 사람에게만 함께 한다.”고 말한다. 若伯夷ㆍ叔齊, 可謂善人者非邪? 백이와 숙제의 경우는 착한 사람이라 할 수 있는가 아닌가? 積仁絜行如此而餓死! 어짊..
춘추좌씨전(春秋左氏傳) 은공(隱公) 1234567891011 환공(桓公) 123456789101112131415161718 장공(莊公) 1234567891011121314151617181920212223242526272829303132 민공(閔公) 12 희공(僖公) 123456789101112131415161718192021222324252627282930313233 문공(文公) 123456789101112131415161718 선공(宣公) 123456789101112131415161718 성공(成公) 123456789101112131415161718 양공(襄公) 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 소공(昭公) 123456789101112131..
10. 은나라의 조경(祖庚) 왕부터 주(紂) 왕의 즉위까지 帝武丁崩, 子帝祖庚立. 祖己嘉武丁之以祥雉爲德, 立其廟爲高宗, 遂作「高宗肜日」及「訓」. 帝祖庚崩, 弟祖甲立, 是爲帝甲. 帝甲淫亂, 殷復衰. 帝甲崩, 子帝廩辛立. 帝廩辛崩, 弟庚丁立, 是爲帝庚丁. 帝庚丁崩, 子帝武乙立. 殷復去亳, 徙河北. 帝武乙無道, 爲偶人, 謂之天神. 與之博, 令人爲行, 天神不勝, 乃僇辱之. 爲革囊, 盛血, 卬而射之, 命曰: ‘射天’. 武乙獵於河渭之閒, 暴雷, 武乙震死, 子帝太丁立. 帝太丁崩, 子帝乙立. 帝乙立, 殷益衰. 帝乙長子曰微子啓, 啓母賤, 不得嗣. 少子辛, 辛母正后, 辛爲嗣. 帝乙崩, 子辛立, 是爲帝辛, 天下謂之紂. 해석 帝武丁崩, 子帝祖庚立. 무정 왕이 붕어(崩御)하고 아들 조경(祖庚) 왕이 즉위했다. 祖己嘉武丁之以祥雉..
95. 원나라에 끝까지 굴하지 않은 문천상 江西提刑文天祥, 募兵勤王. 天祥吉州人, 丙辰魁進士第. 後州郡連降, 德祐二年, 元兵距都城三十里, 天祥爲右丞相, 辭不拜. 出使軍前, 辭氣慷慨, 議論不屈. 元將伯顔留之, 元兵入臨安, 天祥得間逸去. 衛王祥興元年, 天祥屯潮陽, 方飯五坡嶺被執. 元將張弘範乃命天祥, 爲書招張世傑. 天祥書所過「零丁洋」詩與之, 其末有云: “人生自古誰無死, 留取丹心照汗靑.” 弘範笑而置之. 厓山旣破, 弘範等置酒大會, 謂天祥曰: “國亡, 丞相忠孝盡矣, 能改心以事元, 不失爲宰相.” 天祥泫然出涕曰: “國亡不能救, 爲人臣者, 死有餘罪, 況敢逃其死, 而貳其心乎?” 弘範義之, 遣送于燕京. 道經吉州, 痛恨不食八日, 猶生, 乃復食. 天祥至燕, 不屈繫獄, 勵操愈堅. 해석 江西提刑文天祥, 募兵勤王. 강서의 제형(提刑..
94. 백성을 위해 한 몸을 바친 야율초재 元中書令耶律楚材卒. 楚材天資英邁, 夐出人表. 雖案牘滿前, 酬答不失其宜, 正色立朝, 不爲勢屈. 欲以身徇天下, 每陳國家利病, 生民休戚, 辭色懇切. 太宗嘗曰: “汝又欲爲百姓哭耶?” 楚材每言: “興一利不若除一害, 生一事不若減一事.” 平居不妄言笑, 及接士人, 溫恭之容溢于外, 莫不感其德焉. 해석 元中書令耶律楚材卒. 원나라의 중서령(中書令)인 야율초재(律楚材卒)가 숨졌다. 楚材天資英邁, 夐出人表. 야율초재의 천부적 자질이 뛰어나고 고매해 남보다 뛰어났다. 雖案牘滿前, 酬答不失其宜, 正色立朝, 不爲勢屈. 비록 공문서가 앞에 가득해도 처리함에 마땅함을 잃지 않았고 얼굴색을 바로하고 조정에 설 적엔 세력 때문에 굽히지 않았다. 欲以身徇天下, 每陳國家利病, 生民休戚, 辭色懇切. 몸..
93. 온 나라 사람들이 슬퍼한 사마광의 죽음 神宗崩, 太子卽位. 司馬光, 門下侍郞, 光居洛十五年, 兒童走卒, 皆知司馬君實. 元祐元年, 光爲相, 八閱月而薨, 贈太師溫國公, 諡文正. 光在位遼人夏人使來, 必問光起居. 而遼人戒其邊吏曰: “中國相司馬矣, 切毋生事開邊隙.” 及卒, 京師民罷市, 及葬四方來會者, 哭之如哭其親戚. 光嘗語曰: “吾無過人, 但平生所爲, 未嘗有不可對人言者耳.” 人問光一言可以終身行之者, 光曰: “其誠乎!” 해석 神宗崩, 太子卽位. 신종이 붕어(崩御)하자 태자가 즉위했다. 司馬光, 門下侍郞, 光居洛十五年, 兒童走卒, 皆知司馬君實. 사마광은 문하시중이 되었고 사마광이 서울에 산 지 15년에 아이들과 심부름꾼까지 모두 사마군실【사마군실(司馬君實): 군실(君實)은 사마광의 자이다.】을 알 정도였다. ..
92. 주돈이의 인품과 기질 周惇頥, 字茂叔. 博學力行, 聞道早, 遇事剛果, 有古人風. 爲政嚴恕, 務盡理, 以名節自勵, 雅有高趣. 牕前草不除曰: “與自家意思一般.” 黃庭堅稱其人品甚高, 胸中灑落, 如光風霽月. 有『太極圖』ㆍ『通書』, 行于世. 해석 周惇頥, 字茂叔. 주돈이(周惇頥)는 자(字)가 무숙(茂叔)이다. 博學力行, 聞道早, 遇事剛果, 有古人風. 널리 배우고 힘써 행하여 도 듣길 빨리 했으며 일을 처리함에 강직하고 과단성 있게 하였고 옛 사람의 풍모가 있었다. 爲政嚴恕, 務盡理, 以名節自勵, 雅有高趣. 정치를 할 땐 엄격하면서도 용서하며 모든 이치에 힘썼고 명예와 절개에 스스로 힘써 우아한 높은 뜻이 있었다. 牕前草不除曰: “與自家意思一般.” 창 앞에 풀을 없애지 않고서 “우리 집에서의 뜻과 일반이구나..
91. 논어로써 2대의 황제를 섬긴 조보 趙普初以吏道聞, 寡學術. 太祖嘗勸以讀書, 普遂手不釋卷. 每朝有大議輒闔戶, 自啓一篋, 取一書閱之. 及卒, 家人視其篋, 則『論語』也. 嘗謂上曰: “臣有『論語』一部, 以半部, 佐太祖, 定天下; 以半部, 佐陛下, 致太平.” 해석 趙普初以吏道聞, 寡學術. 조보(趙普)는 애초에 관리의 도로 이름 났지만 학문과 재술엔 과문했다. 太祖嘗勸以讀書, 普遂手不釋卷. 태조가 일찍이 독서하길 권면하자 조보는 마침내 손에서 책을 놓질 않았다. 每朝有大議輒闔戶, 自啓一篋, 取一書閱之. 매번 조정에서 큰 회의가 있을 적엔 문득 문을 닫고 스스로 한 상자를 열어 한 책을 가져다 그걸 보았다. 及卒, 家人視其篋, 則『論語』也. 숨지자 집 사람들이 상자를 보니 『논어』였다, 嘗謂上曰: “臣有『論語..
90. 송태조(宋太祖)를 도와 남당을 멸망시킨 조빈 太祖開寶八年, 曹彬圍金陵急. 南唐主李煜遣徐鉉入貢, 求緩兵, 鉉言: “江南無罪.” 上怒按劍曰: “不須多言, 江南亦有何罪? 但天下一家臥榻之側, 豈容他人鼾睡乎?” 鉉惶恐而退. 金陵受圍, 自春徂冬, 勢愈窮蹙, 彬一日忽稱病. 諸將來問, 彬曰: “諸公若共爲信誓, 破城不妄殺一人, 則彬病愈矣.” 諸將皆許諾, 焚香約誓. 翌日城陷, 彬還, 舟中惟圖籍衣衾. 閤門通榜子曰: “奉勅幹事回.” 其不伐如此. 해석 太祖開寶八年, 曹彬圍金陵急. 태조 개보 8년에 조빈(曹彬)이 금릉을 포위하길 급하게 했다. 南唐主李煜遣徐鉉入貢, 求緩兵, 남당의 임금인 이욱(李煜)이 서현(徐鉉)을 보내 공물을 드리며 병사들을 늦춰주길 구하자, 鉉言: “江南無罪.” 서현은 태조에게 “강남은 죄가 없습니다...
89. 신하들이 떨었던 당선종 宣宗臨朝對群臣, 未嘗有惰容. 每宰相奏事, 旁無一人, 威嚴不可仰視. 奏事畢, 忽怡然閑語一刻許, 徐復整容曰: “卿輩善爲之, 常恐卿輩負朕, 不得再相見.” 令孤綯嘗謂人曰: “吾十年秉政, 最承恩遇, 每延英奏事, 未嘗不汗沾衣也.” 해석 宣宗臨朝對群臣, 未嘗有惰容. 당 나라 선종(宣宗) 조정에 와서 여러 신하를 대할 적에 일찍이 나태한 모습이 없었다. 每宰相奏事, 旁無一人, 威嚴不可仰視. 매번 재상이 일을 상주(上奏)할 때 곁에 한 사람도 없더라도 위엄이 있어 우러러볼 수 없었다. 奏事畢, 忽怡然閑語一刻許, 徐復整容曰: 정사를 상주하길 마치면 갑자기 화색이 감돌며 짧은 시간동안[一刻] 한가롭게 말하다가 천천히 다시 용모를 정제하고서 말했다. “卿輩善爲之, 常恐卿輩負朕, 不得再相見.” “..
88. 당선종의 뛰어난 기억력 宣宗聰察强記. 嘗密令學士韋澳纂次州縣境土風物, 及諸利害, 爲一書號曰處分語. 刺史有入謝而出者曰: “上處分本州事, 驚人.” 建州刺史入辭, 上問: “建州去京師幾何?” 曰: “八千里.” 上曰: “卿到彼爲政, 朕皆知之, 勿謂遠. 此階前, 則萬里也.” 해석 宣宗聰察强記. 당나라 선종(宣宗)은 귀 밝고 살필 줄 알며 잘 기억했다. 嘗密令學士韋澳纂次州縣境土風物, 及諸利害, 爲一書號曰處分語. 일찍이 비밀스레 학사 위오(韋澳)에게 주와 현의 경계 내의 풍물(風物)와 모든 이해(纂次)를 편집[纂次]하도록 명령해 한 책을 짓게 하고선 처분어(處分語)라 이름지었다. 刺史有入謝而出者曰: “上處分本州事, 驚人.” 자사가 들어가 사례하고 나오며 “선종께서 우리 고을의 일을 적절히 처분해주어 사람을 놀래키..
87. 안녹산을 토벌한 안진경과 안고경 平原太守顔眞卿, 起兵討賊. 上始聞河北從賊, 嘆曰: “二十四郡, 曾無一人義士邪?” 及眞卿奏至, 大喜曰: “朕不識眞卿何狀, 乃能如此.” 常山太守顔杲卿, 起兵討賊, 河北諸郡皆應之. 十五載, 賊將史思明陷常山, 執杲卿, 送洛陽. 祿山數其反己, 杲卿曰: “我爲國討賊, 恨不斬汝, 何謂反也? 臊羯狗, 何不速殺我?” 祿山大怒, 縛而冎之, 比死, 罵不絶口. 해석 平原太守顔眞卿, 起兵討賊. 평원 태수 안진경(顔眞卿)이 병사를 일으켜 적을 토벌했다. 上始聞河北從賊, 嘆曰: “二十四郡, 曾無一人義士邪?” 현종이 처음 하북지방이 적을 따른다는 걸 듣고 “24군에 일찍이 한 사람이라도 의로운 이가 없는가?”라고 탄식했다. 及眞卿奏至, 大喜曰: “朕不識眞卿何狀, 乃能如此.” 안진경의 상주문에 ..
86. 정사를 전횡한 간신 이임보 玄宗天寶十一載, 李林甫卒. 林甫媚事上左右, 迎合上意, 以固寵, 杜絶言路, 掩蔽聰明. 嘗語諸御史曰: “不見立仗馬乎? 一鳴輒斥去.” 妬賢嫉能, 排抑勝己, 性陰險, 人以爲口有蜜, 腹有劍. 每夜獨坐偃月堂, 有所深思, 明日必有誅殺. 屢起大獄, 自太子以下, 皆畏之. 在相位十九年, 養成天下亂, 而上不悟. 然安祿山畏林甫術數, 故終其世, 未敢反. 해석 玄宗天寶十一載, 李林甫卒. 현종 천보(天寶) 11년에 이인보(李林甫)가 숨졌다. 林甫媚事上左右, 迎合上意, 以固寵, 杜絶言路, 掩蔽聰明. 임보는 현종[上]의 측근[左右]에 아첨하며 섬겨 현종의 뜻에 영합함으로 총애를 굳힘으로 언로를 막고 끊어 현종의 총명함을 덮고 가리었다. 嘗語諸御史曰: “不見立仗馬乎? 一鳴輒斥去.” 일찍이 여러 어사(御..
85. 당현종이 두려워한 한휴 玄宗開元二十一年, 韓休同平章事. 休爲人峭直, 上或宴遊小過, 輒謂左右曰: “韓休知否?” 言終諫疏已至. 左右曰: “休爲相, 陛下殊瘦於舊.” 上歎曰: “吾雖瘠, 天下肥矣.” 休罷 張九齡繼之 해석 玄宗開元二十一年, 韓休同平章事. 현종(玄宗) 개원 21년에 한유(韓休)가 동평장사(同平章事)가 되었다. 休爲人峭直, 上或宴遊小過, 輒謂左右曰: “韓休知否?” 한유의 사람됨이 올곧고 정직해 당현종이 혹 연회에서 놀다가 조금의 잘못이 있으면 갑자기 좌우의 신하에게 “한휴가 아느냐 모르느냐?”라고 말했는데 言終諫疏已至. 말이 끝나자마자 간하는 소장(疏狀)이 이미 이르렀다. 左右曰: “休爲相, 陛下殊瘦於舊.” 좌우의 신하가 “한휴가 재상이 되고서 폐하께선 유달리 예전보다 야위었습니다.”라고 말씀..
84. 좋은 신하가 되도록 해달라고 청한 위징 魏徵嘗告太宗曰: “願使臣爲良臣, 勿使臣爲忠臣.” 上曰: “忠良異乎?” 徵曰: “稷ㆍ契ㆍ皐陶, 君臣協心, 俱享尊榮, 所謂良臣; 龍逢ㆍ比干, 面折廷爭, 身誅國亡, 所謂忠臣.” 上悅. 해석 魏徵嘗告太宗曰: “願使臣爲良臣, 勿使臣爲忠臣.” 위징이 일찍이 당태종에게 “원하기론 저를 좋은 신하가 되게 해주시되 저를 충성스런 신하가 되지 않게 하소서.”라고 말씀드렸다. 上曰: “忠良異乎?” 당태종이 “충성스런 신하와 좋은 신하는 다른가?”라고 말했다. 徵曰: “稷ㆍ契ㆍ皐陶, 君臣協心, 俱享尊榮, 所謂良臣; 위징이 말씀드렸다. “후직(后稷)과 설(契)과 고요(皐陶)와 같은 경우는 임금과 신하가 마음을 모아 함께 존귀함과 영화로움을 누렸으니 소위 좋은 신하이고 龍逢ㆍ比干, ..
83. 당태종을 성군으로 이끌었던 위징 貞觀十七年, 鄭公魏徵卒. 太宗曰: “以銅爲鏡, 可正衣冠; 以古爲鏡, 可見興替; 以人爲鏡, 可知得失. 徵沒, 朕亡一鏡矣.” 徵葬, 上自製碑書石. 東征之役, 不能成功, 上深悔之, 歎曰: “魏徵若在, 不使我有此行也.” 해석 貞觀十七年, 鄭公魏徵卒. 정관 17년에 정공(鄭公)【정나라에 제후로 봉해졌다는 의미로 위징을 이렇게 부르지만, 실제로 위징은 측근으로 간관의 역할을 하다 숨졌다】이 위징이 숨졌다. 太宗曰: “以銅爲鏡, 可正衣冠; 以古爲鏡, 可見興替; 以人爲鏡, 可知得失. 구리로 거울을 만들면 의관을 정제할 수 있고 옛날로 거울을 삼으면 흥망을 볼 수 있으며 사람으로 거울을 삼으면 득실을 알 수 있지. 徵沒, 朕亡一鏡矣.” 위징이 숨졌으니 짐은 하나의 거울을 잃었다.”..
82. 수성과 창업의 어려움 太宗嘗問侍臣: “創業守成孰難?” 房玄齡曰: “草昧之初, 群雄竝起, 角力而後臣之, 創業難矣.” 魏徵曰: “自古帝王, 莫不得之於艱難, 失之於安逸, 守成難矣.” 上曰: “玄齡與吾共取天下, 出百死得一生, 故知創業之難; 徵與吾共安天下, 常恐驕奢生於富貴, 禍亂生於所忽, 故知守成之難. 然創業之難, 往矣, 守成之難, 方與諸公愼之.” 해석 太宗嘗問侍臣: “創業守成孰難?” 당 태종이 일찍이 측근의 신하에게 “나라를 세우는 것과 나라를 지키는 것 중 무엇이 어려운가?”라고 물었다. 房玄齡曰: “草昧之初, 群雄竝起, 角力而後臣之, 創業難矣.” 방현령(房玄齡)이 “창업의 초기엔 여러 영웅이 아울러 일어나 힘을 다투며 이후에 그를 신하로 삼으니 창업이 어렵나이다.”라고 말씀드렸다. 魏徵曰: “自古帝王..
81. 당태종의 정관(貞觀)의 치(治) 有上書請去佞臣者, 曰: “願陽怒以試之, 執理不屈者直臣也, 畏威順旨者佞臣也.” 上曰: “吾自爲詐, 何以責臣下之直乎? 朕方以至誠治天下.” 或請重法禁盜, 上曰: “當去奢省費, 輕徭薄賦, 選用廉吏. 使民衣食有餘, 自不爲盜, 安用重法邪?” 自是數年之後, 路不拾遺, 商旅野宿焉. 해석 有上書請去佞臣者, 曰: “願陽怒以試之, 執理不屈者直臣也, 畏威順旨者佞臣也.” 글을 올려 아첨하는 신하를 없애길 청하는 사람이 “원하기론 거짓으로[佯] 화를 내어 그들을 시험하여 도리를 잡고 굽히지 않는 이는 정직한 신하이고 위세에 떨며 뜻을 따르는 이는 아첨하는 신하입니다.”라고 말했다. 上曰: “吾自爲詐, 何以責臣下之直乎? 朕方以至誠治天下.” 당 태종이 “내가 스스로 거짓을 행하고서 어찌 신하의..
80. 당태종의 욕망을 자제시킨 위징 太宗嘗曰: “君依於國, 國依於民. 刻民以奉君, 猶割肉以充腹, 腹飽而身斃, 君富而國亡矣.” 又嘗謂侍臣曰: “聞西域賈胡, 得美珠, 剖身而藏之, 有諸?” 曰: “有之.” 曰: “吏受賕抵法, 與帝王徇奢欲而亡國者, 何以異此胡之可笑邪?” 魏徵曰: “昔魯哀公, 謂孔子曰: ‘人有好忘者, 徙宅而忘其妻.’ 孔子曰: ‘又有甚者, 桀紂, 乃忘其身.’ 亦猶是也.” 해석 太宗嘗曰: “君依於國, 國依於民. 당 태종이 일찍이 말했다. “임금은 나라에 의존하고 나라는 백성에 의존한다. 刻民以奉君, 猶割肉以充腹, 腹飽而身斃, 君富而國亡矣.” 백성을 해쳐 임금을 받든다는 것은 육신(肉身)을 베어 배를 채우는 것과 같으니 배는 부르지만 몸은 피폐해지고 임금은 넉넉해지지만 나라는 망한다.” 又嘗謂侍臣曰:..
79. 관직을 버린 도연명 宋文帝時, 晉徵士陶潛卒. 潛字淵明, 潯陽人, 陶侃之曾孫也. 少有高趣, 嘗爲彭澤令, 八十日, 郡督郵至. 吏曰: “應束帶見之.” 潛歎曰: “我豈能爲五斗米, 折腰向鄕里小兒.” 卽日解印綬去. 賦「歸去來辭」, 著「五柳先生傳」, 徵不就. 自以先世爲晉臣, 自宋高祖王業漸隆, 不復肯仕. 至是終世, 號靖節先生. 해석 宋文帝時, 晉徵士陶潛卒. 송나라 문제(文帝) 때에 진(晉)의 징사(徵士)【나라의 부름을 받은 학덕이 높은 선비를 일컫는다. 동진(東晉)에 저작좌랑(著作佐郞)의 관직으로 불렀지만 응하지 않았다】인 도잠이 죽었다. 潛字淵明, 潯陽人, 陶侃之曾孫也. 도잠의 자(字)는 연명(淵明)으로 심양(潯陽) 사람인데 도간(陶侃)의 증손이다. 少有高趣, 嘗爲彭澤令, 八十日, 郡督郵至. 젊어서 고상한 의..
78. 큰 뜻을 품었던 왕맹 王猛字景略, 倜儻有大志, 隱居華陰. 聞桓溫入關, 被褐謁之, 捫蝨而談當世之務, 傍若無人. 溫異之, 問猛曰: “吾奉命除殘賊, 而三秦豪傑, 未有至者, 何也?” 猛曰: “公不遠數千里, 深入敵境, 今長安咫尺, 而不渡㶚水. 百姓未知公心, 所以不至.” 溫黙然無以應. 其後, 有薦猛於秦王苻堅者, 一見如舊, 自謂, 如玄德之於孔明. 一歲中五遷官, 擧異才, 修廢職, 課農桑, 恤困窮, 秦民大悅. 해석 王猛字景略, 倜儻有大志, 隱居華陰. 왕맹(王猛)의 자(字)는 경략(景略)인데 성격이 호탕하여 큰 뜻이 있었지만 화산(華山)의 북쪽에 은거했다. 聞桓溫入關, 被褐謁之, 동진(東晉)의 정서장군(征西將軍)인 환온(桓溫)【전진(前秦)의 왕 부건(苻健)이 장안을 수도로 정하고 중국 북부에 나라를 세우자 토벌하기..
77. 제갈량의 선정과 읍참마속(泣斬馬謖) 諸葛亮病篤, 有大星, 赤而芒, 墜亮營中, 未幾亮卒. 楊儀整軍還, 百姓奔告司馬懿. 懿追之, 姜維令儀, 反旗鳴鼓若將向懿, 懿不敢逼. 百姓爲之諺曰: ‘死諸葛走生仲達’ 懿笑曰: “吾能料生, 不能料死” 亮嘗作八陣圖, 懿歎曰: “天下奇才也” 亮爲政無私. 馬謖素爲亮所知, 及敗軍, 流涕斬之, 而卹其後. 李平․ㆍ廖立, 皆爲亮所廢, 及聞亮之喪, 皆歎息流涕, 平至發病死. 해석 諸葛亮病篤, 有大星, 赤而芒, 제갈량의 병이 위독해졌을 때 붉으면서도 꼬리가 있는 별이 墜亮營中, 未幾亮卒. 제갈량의 병영 가운데로 떨어지니, 얼마 있지 않아 제갈량은 죽었다. 楊儀整軍還, 제갈량의 죽음으로 전의를 상실한 군대를 양의가 정돈하고 물러서니, 百姓奔告司馬懿. 백성들이 달려가 사마의에게 그 상황을 ..
76. 후황제 유선에게 올린 상주문(上奏文) 漢丞相諸葛亮, 率諸軍伐魏, 臨發上疏曰: “今天下三分, 益州疲弊, 此危急存亡之秋也. 宜開張聖聽, 不宜塞忠諫之路. 宮中府中俱爲一體, 陟罰臧否, 不宜異同. 若有作姦犯科, 及忠善者, 宜付有司, 論其刑賞, 以昭平明之治. 親賢臣遠小人, 此先漢所以興隆也, 親小人遠賢人, 此後漢所以傾頹也. 臣本布衣, 躬耕南陽, 苟全性命於亂世, 不求聞達於諸侯. 先帝不以臣卑鄙, 猥者枉屈, 三顧臣於草廬之中, 諮臣以當世之事. 由是感激, 許先帝, 以驅馳. 先帝知臣謹愼, 臨崩寄以大事. 受命以來, 夙夜憂懼, 恐付託不效以傷先帝之明. 故五月渡瀘, 深入不毛, 今南方已定, 兵甲已足. 當獎率三軍, 北定中原, 興復漢室, 還于舊都, 此臣所以報先帝, 而忠陛下之職分也.” 遂屯漢中. 해석 漢丞相諸葛亮, 率諸軍伐魏, 한나라..
75. 유비의 죽음과 제갈량의 정치 昭烈帝在位三年崩, 太子禪卽位, 年十七, 是爲後皇帝. 丞相諸葛亮, 受遺詔輔政, 昭烈臨終謂亮曰: “君才十倍曹丕, 必能安國家, 終定大事. 嗣子可輔, 輔之, 如其不可, 君可自取” 亮涕泣曰: “臣敢不竭股肱之力, 致忠貞之節, 繼之以死” 亮乃約官職, 修法制. 下敎曰: “夫參署者, 集衆思廣忠益也. 若遠小嫌, 難相違覆, 曠闕損矣” 해석 昭烈帝在位三年崩, 소열제 유비가 즉위한 지 3년 만에 돌아가셨고, 太子禪卽位, 年十七, 是爲後皇帝. 태자인 유선이 즉위하였으니, 17살이었고, 이가 바로 후황제다. 丞相諸葛亮, 受遺詔輔政, 승상 제갈량은 유비가 남긴 조칙을 받고서 정치를 도우니, 昭烈臨終謂亮曰: 소열제가 임종 때에 제갈량에게 말했다. “君才十倍曹丕, 必能安國家, “그대의 재주는 조비의 ..
74. 관우의 최후, 오나라 조자의 패기 魯肅已死, 呂蒙代之. 亦勸孫權圖關羽, 權將陸遜, 又襲羽後. 羽狼狽走還, 權軍獲羽斬之, 遂陷荊州. 昭烈帝恥羽之沒, 自將伐權, 權求和不許. 權遣使於魏, 魏封權爲吳王. 魏主問吳使趙咨曰: “吳王頗知學乎?” 咨曰: “吳王任賢使能, 志存經略. 雖有餘閑博覽書史, 不效書生尋章摘句” 魏主曰: “吳難魏乎?” 咨曰: “帶甲百萬, 江ㆍ漢爲池, 何難之有?” 魏主曰: “吳如大夫者, 幾人?” 咨曰: “聰明特達者, 八九十人, 如臣之比, 車載斗量, 不可勝數” 해석 魯肅已死, 呂蒙代之. 오나라의 노숙이 이미 죽자 여몽이 그걸 대신하였다. 亦勸孫權圖關羽, 또한 노숙은 손권에게 관우를 도모할 것을 권했고, 權將陸遜, 又襲羽後. 손권의 장군인 육손 또한 관우를 후방에서 기습했다. 羽狼狽走還, 權軍獲羽..
73. 주유의 통찰을 무시한 손권과 괄목상대인 여몽 劉備徇荊州ㆍ江南諸郡. 周瑜上疏於權曰: “備有梟雄之姿, 而有關羽ㆍ張飛熊虎之將. 聚此三人在彊場, 恐蛟龍得雲雨, 終非池中物也. 宜徙備置吳” 權不從. 瑜方議圖北方, 會病卒. 魯肅代領其兵, 肅勸權荊州借劉備, 權從之. 權將呂蒙, 初不學, 權勸蒙讀書. 魯肅後與蒙論議, 大驚曰: “卿非復吳下阿蒙” 蒙曰: “士別三日, 卽當刮目相對” 해석 劉備徇荊州ㆍ江南諸郡. 유비는 형주와 강남 여러 고을에 군대를 파견하여 점령했다. 周瑜上疏於權曰: 주유는 손권에서 상소하였다. “備有梟雄之姿, 而有關羽ㆍ張飛熊虎之將. “유비는 영웅의 자태가 있고 그에겐 관우와 장비라는 곰과 호랑이 같은 장수가 있습니다. 聚此三人在彊場, 恐蛟龍得雲雨, 이들 세 사람이 모아 변방에 있게 하면 교룡이 비구름을 ..
72. 적벽대전, 유종과 손권의 차이 曹操擊劉表, 表卒, 子琮擧荊州降操. 劉備奔江陵, 亮謂備曰: “請求救於孫將軍” 亮見權說之, 權大悅. 操遺權書曰: “今治水軍八十萬衆, 與將軍會獵於吳” 權以示群下, 莫不失色. 周瑜曰: “請得數萬精兵, 進往夏口, 保爲將軍破之.” 遂以瑜督三萬人, 與備幷力逆操, 進遇於赤壁. 瑜部將黃蓋曰: “操軍方連船艦, 首尾相接, 可燒而走也” 乃取蒙衝鬪艦十艘, 載燥荻枯柴, 灌油其中, 裹帷幔, 上建旌旗, 豫備走舸, 繫於其尾. 先以書遺操, 詐爲欲降. 時東南風急. 蓋以十艘, 最著前, 中江擧帆, 餘船以次俱進. 操軍皆指言 “蓋降” 去二里餘, 同時發火, 火烈風猛, 船往如箭, 燒盡北船. 烟焰漲天, 人馬溺燒, 死者甚衆. 瑜等率輕銳, 雷鼓大進, 北軍大懷, 操走還, 後屢加兵於權, 不得志. 操歎息曰: “生子當如孫..
71. 제갈량과 유비의 첫 만남 삼고초려(三顧草廬) 瑯琊諸葛亮, 寓居襄陽隆中, 每自比管仲ㆍ樂毅. 備訪士於司馬徽, 徽曰: “識時務者, 在俊傑. 此間自有伏龍ㆍ鳳雛, 諸葛孔明ㆍ龐士元也” 徐庶亦謂備曰: “諸葛孔明臥龍也” 備三往乃得見亮, 問策, 亮曰: “曹操擁百萬之衆, 挾天子, 令諸侯, 此誠不可與爭鋒. 孫權據有江東, 國險而民附. 可與爲援, 而不可圖. 荊州, 用武之國, 益州險塞, 沃野千里, 天府之土. 將軍帝室之冑, 信義著於四海. 若跨有荊ㆍ益, 保其巖阻, 天下有變, 荊州之軍, 向宛․洛, 益州之衆, 出秦川, 孰不簞食壺漿以迎將軍乎?” 備曰: “善” 與亮情好日密. 曰: “孤之有孔明, 猶魚之有水也” 해석 瑯琊諸葛亮, 寓居襄陽隆中, 낭야 지방의 제갈량은 양양의 융중산에 더부살이하며 每自比管仲ㆍ樂毅. 매일 스스로 관중과 악의에..
70. 조조 간웅이란 자신의 평가에 만족해하다 曹操父嵩, 爲宦官曹騰養子, 或曰: “夏侯氏子也” 操少機警, 有權數, 任俠放蕩, 不治行業. 汝南․許劭, 與從兄靖, 有高名. 共覈論鄕黨人物, 每月輒更其題品. 故汝南俗, 有月旦評. 操往問劭曰: “我何如人?” 劭不答, 劫之, 乃曰: “子治世之能臣, 亂世之姦雄” 操喜而去. 해석 曹操父嵩, 爲宦官曹騰養子, 조조의 아버지는 숭으로 환관 조등의 양자가 되었는데, 或曰: “夏侯氏子也” 혹은 “하우씨의 아들”이라고도 한다. 操少機警, 有權數, 조조는 어려서 기지가 있고 영민했으며【기경(機警): 기지가 있고 영민하여 정황의 변화에 따라 매우 잘 살필 수 있음[機智靈敏, 對情況的變化覺察得很快]】, 권력을 장악하는 술수와 요령【권수(權數): 권력을 장악하는 술수와 요령[謂掌握權力的..
69. 위기를 기회로 만든 우허의 기지 安帝淸河王慶之子, 章帝孫也. 未冠迎卽位, 鄧后仍臨朝, 鄧騭爲大將軍. 時邊軍多事, 騭欲棄涼州, 竝力北邊, 郞中虞詡以爲不可曰: “關西出將, 關東出相, 烈士武夫, 多出涼州” 衆皆從詡議. 騭惡詡, 欲陷之. 會朝歌賊攻殺長吏, 州郡不能禁. 以詡爲朝歌長. 故舊皆弔之, 詡曰: “不遇盤根錯節, 無以別利器” 及到官, 募壯士, 攻劫者爲上, 傷人偸盜者次之, 收得百餘人. 使入賊中, 誘令劫掠, 伏兵殺數百人. 又潛遣貧人能縫者, 傭作賊衣, 以綵線縫其裾. 有出市里者輒禽之, 賊駭散, 縣境皆平. 해석 安帝淸河王慶之子, 章帝孫也. 안제는 청하왕 경의 아들이자, 경제의 손자다. 未冠迎卽位, 鄧后仍臨朝, 어릴 때 영접되어 즉위하였고 등후가 이 때문에 조정에 들어왔고 鄧騭爲大將軍. 등즐은 대장군이 되었다...
68. 서역에서 지내며 일생을 지낸 반초의 이야기 和帝徵班超, 還京師卒. 超起自書生, 投筆, 有封侯萬里外之志. 有相者謂曰: “生, 燕頷虎頭, 飛而食肉, 萬里侯相也” 自假司馬入西域, 章帝時爲西域, 將兵長史, 至上以超, 爲西域都護騎都尉, 平定諸國. 在西域三十年, 以功封定遠侯, 至是以年老乞歸, “願生入玉門關” 上許之. 任尙代爲都護, 請敎, 超曰: “君性嚴急. 水淸無大魚, 宜蕩佚簡易” 尙私謂人曰: “我以班君, 當有奇策. 今所言, 平平耳” 尙後果失邊和, 如超言. 해석 和帝徵班超, 還京師卒. 화제가 반초를 부르니 돌아와 낙양에서 생을 마쳤다. 超起自書生, 投筆, 반초는 서생으로부터 시작하여 붓을 던지고 有封侯萬里外之志. 만 리 밖에서 제후에 봉해지는 것에 뜻이 있었다. 有相者謂曰: “生, 燕頷虎頭, 관상가가 반초에..
67. 서역을 평정한 반초 永平十七年, 復置西域都護ㆍ戊ㆍ已校尉. 初耿秉請伐匈奴, 謂“宜如武帝通西域, 斷匈奴右臂” 上從之, 以秉與竇固爲都尉, 屯涼州. 固使假司馬班超使西域. 超至鄯善, 其王禮之甚備, 匈奴使來, 頓疎懈. 超會吏士三十六人曰: “不入虎穴不得虎子” 奔虜營斬其使及從士三十餘級, 鄯善一國震怖. 超告以威德, 使勿復與虜通. 超復使于寘, 其王亦斬虜使以降. 於是諸國皆遣子入侍, 西域復通. 至是竇固等擊車師而還, 以陳睦爲都護, 及以耿恭爲戊校尉, 關龕爲己校尉, 分屯西域. 해석 永平十七年, 復置西域都護ㆍ戊ㆍ已校尉. 영평(후한 2대 황제 명제의 연호) 17년에 다시 서역도호와 무와 기의 교위를 설치했다. 初耿秉請伐匈奴, 처음으로 경병이 흉노족을 정벌하길 청하며 말했다. 謂“宜如武帝通西域, 斷匈奴右臂” “마땅히 한무제 때에..
66. 뇌물을 받으면 하늘도, 너도, 나도 다 안다던 의로운 선비 양진 太尉楊震關西人, 時人稱之曰: “關西夫子楊伯起” 敎授生徒, 堂下得三鱣, 都講以爲, 有三公之象, 取以進曰: “先生自此升矣.” 後嘗爲郡守, 屬邑令有懷金遺之者曰: “暮夜無知者” 震曰: “天知神知我知子知, 何謂無知?” 令慚而退. 及爲三公時, 宦者及上乳母王聖, 用事, 皆有請託, 震不從, 共搆陷之. 飮酖而死, 葬之日名士皆來會, 有大鳥高丈餘, 至墓前俯仰流涕而去. 해석 太尉楊震關西人, 時人稱之曰: “關西夫子楊伯起” 태위 양진은 관서 사람으로, 당시 사람들은 “관자의 부자는 백기 양진이다.”라고 일컬어질 정도였다. 敎授生徒, 堂下得三鱣, 생도를 교수할 적에 당 아래에서 세 마리의 전어를 얻으니, 都講以爲, 有三公之象, 取以進曰: 수제자【도강(都講): ..
65. 광무제 시기의 어진 신하들 上於臟罪, 無所貸. 大司徒歐陽歙, 嘗犯臟, 歙所授『尙書』弟子千餘人, 守闕求哀, 竟不免死於獄. 所用群臣, 如宋弘等, 皆重厚正直. 上姊湖陽公主嘗寡居, 意在弘. 弘入見, 主坐屛後. 上曰: “諺言, ‘貴易交, 富易妻’ 人情乎?” 弘曰: “貧賤之交不可忘, 糟糠之妻不下堂.” 上顧主曰: “事不諧矣.” 主有蒼頭, 殺人匿主家, 吏不能得. 洛陽令董宣, 候主出行奴驂乘, 叱下車格殺之. 主入訴, 上大怒, 召宣欲捶殺之. 宣曰: “縱奴殺人, 何以治天下? 臣不須捶, 請自殺.” 卽以頭叩楹, 流血被面. 上令小黃門持之, 使叩頭謝主, 宣兩手據地, 終不肯. 上勅, “强項令出” 賜錢三十萬. 當時州牧郡守縣令, 皆良吏. 해석 上於臟罪, 無所貸. 광무제는 횡령죄에 가차 없었다. 大司徒歐陽歙, 嘗犯臟, 대사구 구양흡..
64. 영토를 넓혀가는 광무제(光武帝) 득롱망촉(得隴望蜀) 十二年, 公孫述亡. 述茂陵人, 自更始時, 據蜀稱帝, 國號成. 上旣平隴右曰: “人苦不自足. 旣得隴復望蜀.” 遣大司馬吳漢等, 將兵, 會征南大將軍岑彭, 伐蜀. 彭戰船竝進, 所向無前. 述使盜刺殺彭. 吳漢繼進, 至成都, 擊殺述, 蜀地悉平. 漢在軍或戰不利, 意氣自若, 上歎曰: “吳公差强人意, 隱若一敵國矣.” 해석 十二年, 公孫述亡. 건무 12년에 공손술이 죽었다. 述茂陵人, 自更始時, 공손술은 무릉 사람으로 경시제의 시기로부터 據蜀稱帝, 國號成. 촉(蜀) 땅에 살며 황제를 자칭했고, 국호는 성(成)이라 했다. 上旣平隴右曰: 광무제가 이미 농우를 평정했고 말했다. “人苦不自足. “사람의 괴로움이란 자족하지 않는다는 것이다. 旣得隴復望蜀.” 이미 농땅을 얻고서..
63. 외효가 마원을 공손술에게 보내다. 建武初, 隗囂據天水, 自稱西州上將軍. 嘗遣馬援往成都, 觀公孫述. 援與述舊, 謂當握手歡如平生, 時述已稱帝四年矣. 援旣至, 盛陳陛衛, 以迎援. 援謂其屬曰: “天下雌雄未定, 公孫不吐哺迎國士. 反修飾邊幅, 如偶人形. 此何足久稽天下士乎?” 因辭歸謂囂曰: “述井底蛙耳. 而妄自尊大.” 해석 建武初, 隗囂據天水, 건무(광무제의 연호) 초에 외효가 천수에 의거하여 自稱西州上將軍. 스스로 ‘서주상장군’이라 일컬었다. 嘗遣馬援往成都, 觀公孫述. 일찍이 마원을 파견하여 성도로 보내어 공손술을 살펴보도록 했다. 援與述舊, 謂當握手歡如平生, 마원과 공손술을 옛 친구로 마땅히 손을 잡고 환대하기를 평생의 지기(知己)처럼 할 것이라 했는데, 時述已稱帝四年矣. 이때가 공손술이 이미 황제로 칭한..
62. 신상필벌(信賞必罰)을 분명하게 한 한나라 선제(宣帝) 宣帝者, 武帝之曾孫也. 帝興於閭閻, 知民事之艱難, 勵精爲治. 拜刺史守相, 輒親見問, 常曰: “民所以安其田里而無嘆息愁恨之聲者, 政平訟理也. 與我共此者, 其惟良二千石乎. 以爲太守吏民之本, 數變易, 則民不安.” 故二千石, 有治理之效, 輒以璽書勉勵, 增秩賜金, 漢世良吏, 於是爲盛. 信賞必罰, 綜核名實, 政事文學法理之士, 咸精其能. 해석 宣帝者, 武帝之曾孫也. 선제는 무제의 증손자다. 帝興於閭閻, 知民事之艱難, 선제는 민가에서 생활해봤기에 일반인들의 어려움을 알아 勵精爲治. 정신을 가다듬고 정성껏 정치를 했다. 拜刺史守相, 輒親見問, 常曰: 자사와 태수와 재상을 임명할 적에 친히 보고 물었으며 항상 말했다. “民所以安其田里而無嘆息愁恨之聲者, “백성들이 ..
61. 초왕(楚王) 한신(韓信), 토사구팽(兎死狗烹) 당하다 高祖六年, 人有上書告楚王韓信反. 諸將曰: “發兵坑孺子耳.” 上問陳平, 平危之曰: “古有巡狩會諸侯. 陛下第出僞遊雲夢, 會諸侯於陳, 因禽之, 一力士之事耳.” 上從之. 告諸侯會陳, “吾將遊雲夢” 至陳ㆍ信上謁, 命武士縛信, 載後車. 信曰: “果若人言, ‘狡兎死, 走狗烹, 飛鳥盡, 良弓藏, 敵國破謀臣亡.’ 天下已定, 臣固當烹.” 遂械繫以歸, 赦爲淮陰侯. ▲ 한신과 토사구팽. 한신의 인생은 정말 드라마틱하다. 해석 高祖六年, 人有上書告楚王韓信反. 한고조 6년에 사람들이 한고조에게 초왕 한신이 반란을 꾸미고 있다고 글을 올려 알렸다. 諸將曰: “發兵坑孺子耳.” 모든 장수들이 말했다. “병사들을 출동시켜 그 어린 놈인 한신을 묻어버리면 그만입니다.” 上問陳平..
60. 포로 19년을 버티고 버틴 소무(蘇武) 天漢元年, 遣中郞將蘇武, 使匈奴. 單于欲降之, 幽武置大窖中, 絶不飮食. 武齧雪與旃毛幷咽之, 數日不死, 匈奴以爲神. 徙武北海, 上無人處, 使牧羝曰: “羝乳乃得歸.” 二年遣李廣利, 擊匈奴, 別將李陵, 敗降虜. 始元六年, 蘇武還自匈奴. 武始徙北海上, 掘野鼠去草實而食之, 臥起持漢節. 漢使者至匈奴, 匈奴詭言武已死. 漢使知之言, “天子射上林, 中得雁, 足有帛書云 ‘武在大澤中.’” 匈奴不能隱, 乃遣武還. 武留匈奴十九年, 始以强壯出, 及還須髮盡白. 拜爲典屬國. 해석 天漢元年, 遣中郞將蘇武, 使匈奴. 천한(天漢) 원년에 중서 소무를 파견하여 흉노족에 보냈다. 單于欲降之, 幽武置大窖中, 선우는 소무를 투항하게 하고자 하여 소무를 가두어 큰 움 속에 두고서는 絶不飮食. 아무런 ..
59. 장량(張良)을 가르친 기이한 스승 留侯張良少時, 於下邳圯上, 遇老人. 墮履圯下, 謂良曰: “孺子下取履.” 良欲歐之, 憫其老. 乃下取履, 老人以足受之曰: “孺子可敎, 後五日, 與我期於此.” 良如期往, 老人已先在. 怒曰: “與長者期, 後何也?” 復約五日. 及往, 老人又先在, 怒復約五日. 良半夜往, 老人至乃喜授以一編書曰: “讀此可謂帝者師. 異日見濟北穀城山下黃石, 卽我也.” 旦視之, 乃『太公兵法』. 良異之, 晝夜習讀. 旣佐上定天下, 封於留, 後經穀城, 果得黃石焉, 奉祠之. 해석 留侯張良少時, 於下邳圯上, 유후 장량이 어릴 적에 하비(下邳)의 흙다리 위에서 遇老人. 어떤 노인을 만났다. 墮履圯下, 謂良曰: 그 노인은 다짜고짜 자신의 신발을 흙다리 밑으로 떨어뜨리며 장량에게 말했다. “孺子下取履.” “어린놈..
58. 한신(韓信)과 한고조(漢古祖)의 문답(問答) 上嘗從容問韓信, 諸將能將兵多少. 上曰: “如我能將幾何?” 信曰: “陛下不過將十萬.” 上曰: “於君何如?” 信曰: “臣多多益辨” 上笑曰: “多多益辨, 何以爲我禽?” 曰: “陛下不能將兵而善將將. 此信所以爲陛下禽. 且陛下所謂天授, 非人力也.” 해석 上嘗從容問韓信, 한고조가 조용히 한신에게 諸將能將兵多少. 모든 장수가 거느릴 수 있는 병사의 많고 적음에 대해 물었었다. 上曰: “如我能將幾何?” 한고조가 말했다. “나와 같은 경우는 어느 정도를 거느릴 수 있겠는가?” 信曰: “陛下不過將十萬.” 한신이 대답했다. “폐하께서는 10만 거느리는 것을 넘어서질 못합니다.” 上曰: “於君何如?” 한고조가 말했다. “그대라면 어느 정도요?” 信曰: “臣多多益辨” 한신이 대..
57. 한고조와 삼걸(張良ㆍ蕭何ㆍ韓信)의 문답 漢王卽皇帝位, 置酒洛陽南宮. 上曰: “徹侯諸將, 皆言. 吾所以得天下者何, 項氏所以失天下者何?” 高起ㆍ王陵對曰: “陛下使人攻城掠地, 因而與之, 與天下同其利, 項羽不然. 有功者害之, 賢者疑之, 戰勝而不豫人功, 得地而不與人利.” 上曰: “公知其一未知其二. 夫運籌帷幄之中, 決勝千里之外, 吾不如子房, 鎭國家撫百姓給饋餉, 不絶糧道, 吾不如蕭何, 連百萬之衆, 戰必勝攻必取, 吾不如韓信. 此三者, 皆人傑也, 吾能用之, 此吾所以取天下, 項羽有一范增而不能用, 此其所以爲我擒也.” 群臣悅服. 해석 漢王卽皇帝位, 置酒洛陽南宮. 한고조가 황제로 즉위하여 낙양 남쪽 궁궐에서 연회를 베풀었다. 上曰: “徹侯諸將, 皆言. 한고조가 말했다. “나열지어선 제후들과 모든 장수들은 다 말하라. 吾..
56. 우미인과 이별하는 항우(項羽) 張良ㆍ陳平謂漢王曰: “漢有天下大半, 楚兵饑疲, 今釋不擊, 此養虎自遺患也.” 王從之. 五年, 王追羽至固陵, 韓信ㆍ彭越皆引兵來, 黥布亦會. 項羽至垓下, 兵少食盡. 信等乘之, 羽敗入壁, 圍之數重. 羽夜聞漢軍四面皆楚歌, 大驚曰: “漢已得楚乎? 何楚人多也.” 起飮帳中, 命虞美人起舞, 悲歌慷慨, 泣數行下. 其歌曰: “力拔山兮, 氣蓋世, 時不利兮, 騅不逝, 騅不逝兮, 可奈何, 虞兮虞兮, 奈若何” 騅者羽平日所乘駿馬也. 左右皆泣, 莫敢仰見. 羽乃夜從八百餘騎, 潰圍南出. 渡淮, 至東城, 乃有二十八騎. 羽謂其騎曰: “吾起兵八歲, 七十餘戰, 未嘗敗也. 今卒困此, 此天亡我, 非戰之罪. 今日固決死, 願爲諸君決戰, 必潰圍斬將, 令諸君知之, 皆如其言.” 於是, 欲東渡烏江, 亭長艤船待曰: “江東雖..
55. 정형구 전투와 배수진 漢三年, 韓信ㆍ張耳, 以兵擊趙, 聚兵井陘口, 趙王歇及成安君陳餘禦之. 夜半信傳發輕騎二千, 人人持赤幟, 從間道望趙軍. 戒曰: “趙見我走, 必空壁逐我. 若疾入趙壁, 拔趙幟立漢赤幟.” 乃使萬人先行背水陣, 平旦建大將旗鼓, 鼓行出井陘口, 趙開壁擊之. 戰良久, 信ㆍ耳佯棄旗鼓, 走水上軍, 趙果空壁逐之. 水上軍皆殊死戰. 趙軍已失信等歸壁, 見赤幟大驚, 遂亂遁走. 漢軍夾擊大破之, 斬陳餘禽趙歇. 諸將賀因問曰: “兵法右倍山陵, 前左水澤, 今背水而勝何也?” 信曰: “兵法不曰: ‘陷之死地而後生, 置之亡地而後存乎.’” 諸將皆服. 해석 漢三年, 韓信ㆍ張耳, 한나라 3년에 한신과 장이가 以兵擊趙, 聚兵井陘口, 병사들로 조나라를 치려 정형구(井陘口) 군사를 모으니, 趙王歇及成安君陳餘禦之. 조나라 임금인 헐(歇..
54. 항우에게 삶아 죽임을 당한 한생 沛公至軍, 立誅曹無傷. 居數日, 羽引兵西, 屠咸陽, 殺降王子嬰. 燒秦宮室, 火三月不絶. 掘始皇冢, 收寶貨婦女而東, 秦民大失望. 韓生說羽曰: “關中阻山帶河, 四塞之地肥饒, 可都以覇.” 羽見秦殘破, 且思東歸曰: “富貴不歸故鄕, 如衣繡夜行耳.” 韓生退曰: “人言, 楚人沐猴而冠, 果然.” 羽聞之, 烹韓生. 後羽自立爲西楚覇王, 立沛公爲漢王, 王巴ㆍ蜀ㆍ漢中, 是歲漢元年也. 해석 沛公至軍, 유방이 홍문회합에서 가까스로 도망 나와 군진에 이르자, 立誅曹無傷. 곧바로 이간질을 했던 좌사마 조무상을 죽였다. 居數日, 羽引兵西, 자리를 잡은 지 며칠 후에 항우는 병사들을 데리고 서쪽으로 가서 屠咸陽, 殺降王子嬰. 진나라의 수도인 함양을 도륙하고 이미 항복한 진나라의 왕자인 영(嬰)을 ..
53. 유방을 피신시킨 장량과 번쾌 張良出, 告樊噲以事急. 噲擁盾直入, 嗔目視羽, 頭髮上指, 目眥盡裂. 羽曰: “壯士, 賜之巵酒.” 則與斗巵酒, “賜之彘肩” 則生彘肩. 噲立飮, 拔劍切肉啗之. 羽曰: “能復飮乎?” 噲曰: “臣死且不避, 巵酒安足辭. 沛公先破秦入咸陽, 勞苦而功高如此. 未有封爵之賞, 而將軍聽細人說, 欲誅有功人, 此亡秦之續耳, 竊爲將軍不取也.” 羽曰: “坐!” 噲從良坐, 須臾沛公起如厠, 因招噲出, 間行趨覇上. 留良謝羽曰: “沛公不勝杯杓, 不能辭. 使臣良奉白璧一雙, 再拜獻將軍足下, 玉斗一雙, 再拜奉亞父足下.” 羽曰: “沛公安在?” 良曰: “聞將軍有意督過之, 脫身獨去, 已至軍矣.” 亞父拔劍, 撞玉斗而破之曰: “唉! 豎子不足謀. 奪將軍天下者, 必沛公也.” 해석 張良出, 告樊噲以事急. 장량이 밖으로 나..
52. 유방을 죽이려는 범증(范增) 沛公旦從百餘騎, 見羽鴻門. 謝曰: “臣與將軍戮力而攻秦, 將軍戰河北, 臣戰河南, 不自意, 先入關破秦. 得復見將軍於此, 今者有小人之言, 令將軍與臣有隙.” 羽曰: “此沛公左司馬曹無傷之言.” 羽留沛公與飮, 范增數目羽擧所佩玉玦者三, 羽不應. 增出使項莊入前, 爲壽請以劍舞, 因擊沛公. 項伯亦拔劍起舞以身, 翼蔽沛公, 莊不得擊. 해석 沛公旦從百餘騎, 見羽鴻門. 유방은 아침에 백여명의 기마병을 따라 항우를 홍문(鴻門)에서 뵈었다. 謝曰: “臣與將軍戮力而攻秦, 유방은 사죄드렸다. “신하와 장군은 힘을 모아 진나라를 공격했는데 將軍戰河北, 臣戰河南, 장군은 하북에서 싸웠고 저는 하남에서 싸워 不自意, 先入關破秦. 의도치 않게 먼저 함곡관에 들어와 진나라를 무너뜨렸습니다. 得復見將軍於此, 다..
51. 항우(項羽)와 범증(范增)의 이야기를 장량(張良)에게 고하다 項羽率諸侯兵, 欲西入關, 或說沛公, 守關門, 羽至門閉, 大怒攻破之. 進至戱西, 期旦擊沛公. 羽兵四十萬, 號百萬, 在鴻門, 沛公兵十萬, 在覇上. 范增說羽曰: “沛公居山東, 貪財好色. 今入關, 財物無所取, 此其志不在小, 急擊勿失.” 羽季父項伯, 素善張良, 夜馳至沛公軍, 告良. 해석 項羽率諸侯兵, 欲西入關, 항우가 모든 제후를 거느리고 서쪽 함곡관으로 들어가고자 하자, 或說沛公, 守關門, 羽至門閉, 혹자가 유방을 설득하여 관문을 지켜 항우가 도착하자 문을 닫아걸었는데 大怒攻破之. (항우)가 크게 성내며 공격해 부셔버렸다. 進至戱西, 期旦擊沛公. 진격하여 희서(戱西)에 이르러 아침에 유방을 공격하기로 했다. 羽兵四十萬, 號百萬, 在鴻門, 항우의..
50. 한신, 유방의 책략가로 활짝 피다 初淮陰人韓信, 家貧釣城下. 有漂母, 見信饑, 飯信. 信曰: “吾必厚報母.” 母怒曰: “大丈夫不能自食, 吾愛王孫而進食, 豈望報乎.” 淮陰屠中少年, 有侮信者. 因衆辱之曰: “若雖長大好帶劍, 中情怯耳. 能死刺我, 不能出我胯下.” 信熟視之, 俛出胯下蒲伏, 一市人皆笑信怯. 後項梁渡淮, 信從之. 又數以策干項羽不用. 亡歸漢, 爲治粟都尉. 數與漢王臣蕭何語, 何奇之. 謂王曰: “信國士無雙.” 王乃設壇場具體, 諸將皆喜, 人人自以爲得大將. 至拜乃韓信也, 一軍皆驚. 王遂用信計, 襲秦諸將, 章邯敗死, 司馬欣等皆降. 해석 初淮陰人韓信, 家貧釣城下. 초반에 회음인인 한신은 집이 가난하여 성 아래에서 낚시를 하며 소일하고 있었다. 有漂母, 見信饑, 飯信. 빨래터 아낙이 한신이 굶주린 걸 보고..
49. 범증의 회왕 옹립하기 居鄛人范增, 年七十, 好奇計, 往說項梁曰: “陳勝不立楚後而自立, 其勢不長. 今君起江東, 楚蜂起之將, 爭附君者. 以君世世楚將, 必能復立楚之後.” 於是項梁求得楚懷王孫心, 立爲楚懷王, 以從民望. 해석 居鄛人范增, 年七十, 好奇計, 거소(居鄛) 출신인 범증은 나이 70살이었는데 기이한 계책을 좋아하여 往說項梁曰: “陳勝不立楚後而自立, 가서 항량을 설득했다. “진승은 초나라 후계자를 세우지 않고 자립하고자 하였기에 其勢不長. 그 세력이 길게 유지되지 못했습니다. 今君起江東, 楚蜂起之將, 이제 그대는 강동에서 기병하여 초나라에서 봉기한 장수로, 爭附君者. (누구든) 다투어 그대에게 편입되려 할 것입니다. 以君世世楚將, 必能復立楚之後.” 그대가 대대로 초나라의 장수가 되고자 한다면, 반드..
48. 항우의 어린시절과 항우의 시작 項梁者, 楚將項燕之子也. 嘗殺人, 與兄子籍避仇吳中. 籍字羽, 少時學書, 不成去, 學劍, 又不成. 梁怒, 籍曰: “書足以記姓名而已, 劍一人敵也, 不足學, 學萬人敵.” 梁乃敎籍兵法. 會稽守殷通. 欲起兵應陳涉, 使梁爲將, 梁使籍斬通, 佩其印綬. 遂擧吳中兵, 得八千人. 籍爲裨將, 時年二十四. 해석 項梁者, 楚將項燕之子也. 항량은 초나라 장수 항연의 아들이다. 嘗殺人, 與兄子籍避仇吳中. 일찍이 사람을 죽여 형의 자식인 적과 함께 오중으로 원수를 피해 달아났다. 籍字羽, 少時學書, 不成去, 적의 자는 우인데 어려서 글을 배울 때 성취도 없이 그만뒀으며, 學劍, 又不成. 검을 배울 때도 성취를 내지 못했다. 梁怒, 籍曰: 항량이 성내니, 항우가 말씀드렸다. “書足以記姓名而已, 劍..
47. 진나라의 멸망을 알린 진승과 오광의 반란 陽城人陳勝, 字涉. 少與人傭耕, 輟耕之隴上, 悵然久之曰: “苟富貴無相忘.” 傭者笑曰: “若爲傭耕, 何富貴也?” 勝太息曰: “嗟呼! 燕雀安知鴻鵠之志哉?” 至是與吳廣起兵于蘄, 時發閭左, 戌漁陽, 勝ㆍ廣爲屯長. 會大雨道不通, 乃召徒屬曰: “公等失期, 法當斬, 壯士不死則已, 死則擧大名. 王侯將相, 寧有種乎?” 衆皆從之. 乃詐稱公子扶蘇項燕, 稱大楚, 勝自立爲將軍. 廣爲都尉. 해석 陽城人陳勝, 字涉. 함양 사람 진승의 자는 섭이다. 少與人傭耕, 輟耕之隴上, 어려서 어떤 이와 함께 농사일에 고용되어 언덕 위에서 밭 갈다 그만두고 悵然久之曰: “苟富貴無相忘.” 쓸쓸히 “진실로 (훗날) 부귀해지면 서로 잊지 말자.”라고 말했다. 傭者笑曰: “若爲傭耕, 何富貴也?” 그랬더니..
46. 장남(長男) 부소(扶蘇)를 북방(北方)으로 쫓아내다 三十五年, 侯生盧生, 相與譏議始皇, 因亡去. 始皇大怒曰: “盧生等, 吾尊賜之甚厚, 今乃誹謗我. 諸生在咸陽者, 吾使人廉問, 或爲妖言, 以亂黔首.” 於是使御史悉按問諸生, 傳相告, 引乃自除, 犯禁者, 四百六十餘人. 皆坑之咸陽. 長子扶蘇諫曰: “諸生皆誦法孔子, 今上皆重法繩之, 臣恐天下不安.” 始皇怒. 使扶蘇, 北監蒙括軍於上郡. 해석 三十五年, 侯生盧生, 相與譏議始皇, 35년에 후생과 노생이 서로 함께 시황제를 기롱하며 의론을 하였고, 因亡去. 처벌될까 두려워하며 도망가 버린 사건이 있었다. 始皇大怒曰: 시황제는 매우 화내며 말했다. “盧生等, 吾尊賜之甚厚, “노생 등의 무리는 내가 존중하며 하사하길 심히 후하게 했음에도 今乃誹謗我. 이제 나를 비방하고 ..
45. 분서갱유(焚書坑儒)를 위한 이사(李斯)의 변 三十四年, 丞相李斯, 上書曰: “異時諸侯竝爭, 厚招遊學. 今天下已定, 法令出一, 百姓當家則力農工, 士則學習法令. 今諸生不師今而學古, 以非當世, 惑亂黔首. 聞令下, 則各以其學議之, 入則心非, 出則巷議, 率群下以造謗. 臣請. 史官非秦記, 皆燒之, 非博士官所職, 天下有藏詩書百家語者, 皆詣守尉雜燒之. 有偶語詩書者, 棄市, 以古非今者族. 所不去者, 醫藥卜筮種樹之書, 若有欲學法令, 以吏爲師.” 制曰: “可” 해석 三十四年, 丞相李斯, 上書曰: 34년 승상 이사가 글을 올려 다음과 같이 말씀드렸다. “異時諸侯竝爭, 厚招遊學. “다른 때엔 제후들이 함께 싸워, 후하게 유학하는 이들을 초빙했습니다. 今天下已定, 法令出一, 이제 천하는 이미 정해져 법령이 한 군데서 나오..
44. 통일제국을 위해 진시황의 명령 秦王政初幷天下, 自以‘德兼三皇, 功過五帝’ 更號曰皇帝. 命爲制, 令爲詔, 自稱曰朕. 制曰: “死而以行爲諡, 則是子議父, 臣議君也, 甚無謂, 自今以來, 除諡法. 朕爲始皇帝, 後世以計數, 二世三世, 至于萬世, 傳之無窮.” 收天下兵, 聚咸陽, 銷以爲鍾鐻金人十二, 重各千石. 徙天下豪富於咸陽, 十二萬戶. 해석 秦王政初幷天下, 진나라 왕 정은 초반에 천하를 병합하고 自以‘德兼三皇, 功過五帝’ 스스로 ‘덕으론 삼황을 겸했고, 공으론 오제를 뛰어넘었다’고 여겼기에 更號曰皇帝. 호칭을 고쳐 ‘황제’로 부르게 했다. 命爲制, 이때까지 써온 ‘명(命)’이란 호칭을 ‘제(制)’로, 令爲詔, 自稱曰朕. 이때까지 써온 ‘령(令)’이란 호칭을 ‘소(詔)’로, 임금 자신을 일컫는 말은 ‘짐(朕)..
43. 모수, 자신감으로 초나라 임금과 한판 떠서 동맹을 성사시키다 秦攻趙邯鄲, 趙平原君求救於楚. 擇門下文武備具者二十人, 與之俱得十九人. 毛遂自薦, 平原君曰: “士處世若錐處囊中, 其末立見. 今先生處門下三年, 未有聞.” 遂曰: “使遂得處囊中乃脫穎而出, 非特末見而已.” 平原君乃以備數, 十九人目笑之. 至楚定從不決. 毛遂按劍歷階升曰: “從之利害, 兩言而決耳. 今日出而言, 日中不決何也?” 楚王怒叱曰: “胡不下, 吾與而君言, 汝何爲者?” 毛遂按劍, 而前曰: “王所以叱遂, 以楚國之衆也. 今十步之內, 不得恃楚國之衆也. 王之命, 懸於遂手. 合從爲楚, 非爲趙也.” 王曰: “唯唯, 誠若先生之言, 謹奉社稷以後.” 遂曰: “取鷄狗馬之血來.” 捧銅盤, 跪進曰: “王當歃血而定從, 次者吾君, 次者遂.” 左手持盤右手招十九人, 歃血於堂..
42. 맹상군을 존경받는 군주로 만든 풍환 齊襄王旣立, 而孟嘗君中立爲諸侯, 無所屬, 王畏之, 與連和. 初馮驩聞孟嘗君好客, 而來見, 置傳舍十日. 彈劍作歌曰: “長鋏歸來乎! 食無魚.” 遷之幸舍, 食有魚矣. 又歌曰: “長鋏歸來乎! 出無輿.” 遷之代舍, 出有輿矣. 又歌曰: “長鋏歸來乎, 無以爲家.” 孟嘗君聞不悅. 時邑入不足以奉客, 使人出錢於薛貸者, 多不能與息. 孟嘗君乃進驩, 請責之. 驩往不能與者, 取其券燒之. 孟嘗君怒, 驩曰: “令薛民親君.” 孟嘗君竟爲薛公, 終於薛. 해석 齊襄王旣立, 而孟嘗君中立爲諸侯, 제양왕(齊襄王)이 즉위했고, 맹상군(孟嘗君)은 중립에 서서 제후가 되어 無所屬, 王畏之, 與連和. 속한 지위가 없었음에도 왕은 맹상군을 두려워하여 함께 동맹을 맺었다. 初馮驩聞孟嘗君好客, 而來見, 초반에 풍환(..
41. 계명구도의 식객이 맹상군을 살리다 田嬰封於薛, 有子曰文, 食客數千人, 名聲聞於諸侯, 號爲孟嘗君, 秦昭王聞其賢, 乃先納質於齊以求見, 至則止囚, 欲殺之. 孟嘗君使人, 扺昭王幸姬求解. 姬曰: “願得君狐白裘.” 蓋孟嘗君嘗以獻昭王, 無他裘. 客有能爲狗盜者, 入秦藏中, 取裘以獻姬, 姬爲言得釋. 卽馳去變姓名, 夜半至函谷關. 關法, 鷄鳴方出客, 恐秦王後悔追之 客有能爲鷄鳴者, 鷄盡鳴, 遂發傳. 出食頃追者果至, 而不及. 孟嘗君歸怨秦, 與韓ㆍ魏伐之, 入函谷關, 秦割城以和. 해석 田嬰封於薛, 有子曰文, 전영(田嬰)은 설(薛)땅을 봉분 받았으며, 아들의 이름은 전문(田文)으로 食客數千人, 名聲聞於諸侯, 식객이 수천 명이나 되어 명성이 제후들에게 소문이 나 號爲孟嘗君, 맹상군(孟嘗君)이라 불렸다고 한다. 秦昭王聞其賢, 진..
40. 진시황을 죽이지 못한 형가 燕王喜太子丹, 質於秦. 秦王政不禮焉, 怒而亡歸, 怨秦欲報之. 丹聞衛人荊軻賢, 卑辭厚禮請之, 奉養無不至. 乃裝遣軻, 軻行至易水, 歌曰: “風蕭蕭兮易水寒, 壯士一去兮不復還” 于時白虹貫日, 燕人畏之. 軻至咸陽, 秦王政大喜見之. 軻奉圖進. 圖窮而匕首見, 把王袖椹之未及身, 王驚起絶袖. 軻逐之, 環柱走. 秦法群臣侍殿上者, 不得操尺寸兵, 左右以手搏之. 且曰: “王負劍” 遂拔劍斷其左股. 軻引匕首, 擿王不中. 遂體解以徇. 秦王大怒, 益發兵伐燕, 喜斬丹以獻. 後三年, 秦兵虜喜, 遂滅燕爲郡. 해석 燕王喜太子丹, 質於秦. 연나라 왕 희의 태자인 단(丹)은 진나라에 인질로 잡혀 있었다. 秦王政不禮焉, 怒而亡歸, 그런데 진나라 왕인 정(政)은 예우하지 않아 단은 화를 내며 도망하여 귀국하였고, ..
39. 소꼬리에 불을 붙여 싸운 전단 時齊城, 惟莒ㆍ卽墨不下, 卽墨人推田單爲將軍, 身操版鍤, 與士卒分功. 妻妾編於行伍. 收城中得牛千餘, 爲絳繪衣, 畵五彩龍文, 束兵刃其角, 灌脂束葦於尾, 燒其端. 鑿城數十穴, 夜縱牛, 壯士隨其後. 牛尾熱, 怒奔燕軍, 所觸盡死傷. 而城中鼓譟從之 聲振天地. 燕軍敗走, 七十餘城皆復爲齊. 迎襄王於莒, 封單爲安平君. 해석 時齊城, 惟莒ㆍ卽墨不下, 그때에 제나라 성 중에, 오직 거와 즉묵만이 항복하지 않았고 卽墨人推田單爲將軍, 즉묵의 백성들은 전단을 추천하여 장군이 되도록 했다. 身操版鍤, 與士卒分功. 전단은 몸으로 판과 삽을 가지고 병사들과 함께 생활하며 공적을 같이 분배했고, 妻妾編於行伍. 아내와 첩을 군대에 편입시켰다. 收城中得牛千餘, 성에서 수거하여 얻은 소가 천여 마리였는데..
38. 천리마의 뼈 이야기로 등용된 곽외와 제나라를 깨부순 악의 燕昭王弔死問生, 卑辭厚幣以招賢者. 問郭隗曰: “齊因孤之國亂而襲破燕, 孤極知燕小不足以報. 誠得賢士與共國, 以雪先王之恥. 孤之願也. 先生視可者, 得身事之.” 隗曰: “古之君, 有以千金使涓人求千里馬者, 買死馬骨五百金而返, 君怒. 涓人曰: ‘死馬且買之, 況生者乎? 馬今至矣.’ 不期年, 千里馬至者三. 今王必欲致士, 先從隗始. 況賢於隗者, 豈遠千里哉?” 於是昭王爲隗改築宮, 師事之, 於是士爭趨燕. 樂毅自魏往, 以爲亞卿, 任國政. 已而使毅伐齊, 入臨淄, 齊王出走. 毅乘勝, 六月之間, 下齊七十餘城, 惟莒ㆍ卽墨不下 해석 燕昭王弔死問生, 연나라 소왕은 죽은 이를 조문하고 산 이를 위문하였으며, 卑辭厚幣以招賢者. 말을 낮추고 폐백을 후하게 하여 어진 이를 불렀다..
37. 진나라의 반간계에 걸려 위험에 처한 조나라 趙惠文王子, 孝成王立. 秦伐韓, 韓上黨, 降於趙. 秦攻趙, 廉頗軍長平, 堅壁不出. 秦人行千金, 爲反間曰: “秦獨畏馬服君趙奢之子括爲將耳.” 王使括代頗, 相如曰: “王以名使括, 若膠柱鼓瑟耳. 括徒能讀其父書, 不知合變也.” 王不聽. 括少學兵法, 以天下莫能當, 與父奢言, 不能難. 然不以爲然. 括母問故, 奢曰: “兵死地也, 而括易言之 趙若將括, 必破趙軍.” 及括將行, 其母上書言 “括不可使” 括至軍, 果爲秦將白起所射殺, 卒四十萬皆降, 抗於長平. 해석 趙惠文王子, 孝成王立. 조혜문 왕의 자식인 효성왕이 즉위했다. 秦伐韓, 韓上黨, 降於趙. 진나라가 한나라를 정벌하니, 한나라 상당은 조나라에 투항했다. 秦攻趙, 廉頗軍長平, 진나라는 조나라를 공격했는데 염파가 장평에 진..
36. 대의를 위해 수모를 무릎 쓰며 참아낸 인상여와, 그걸 알아봐서 문경지교가 된 염파 趙王以藺相如爲上卿, 在廉頗右. 頗曰: “我爲趙將, 有攻城野戰之功, 相如素賤人, 徒以口舌居我上. 吾羞爲之下, 我見相如必辱之.” 相如聞之, 每朝常稱病, 不欲與爭列, 出望見輒引車避匿, 其舍人皆以爲恥. 相如曰: “夫以秦之威, 相與廷叱之, 辱其群臣. 相如雖駑, 獨畏廉將軍哉. 顧念, 强秦不敢加兵於趙者, 徒以吾兩人在也. 今兩虎共鬪, 其勢不俱生, 吾所以爲此者, 先國家之急而後私讐也.” 頗聞肉袒負荊, 詣門謝罪, 遂爲刎頸之交. 해석 趙王以藺相如爲上卿, 在廉頗右. 조나라 혜문왕이 인상여를 상경으로 임명하여 염파의 상관이 되도록 했다. 頗曰: “我爲趙將, 有攻城野戰之功, 염파가 말했다. “나는 조나라 장군으로 성을 공격하여 야전에서 공이 ..
35. 진 소양왕과 한바탕 기싸움을 하며 ‘완벽’이란 성어를 만들어낸 인상여 趙惠文王, 嘗得楚和氏璧. 秦昭王, 請以十五城易之. 欲不與畏秦强, 欲與恐見欺. 藺相如願奉璧往, 城不入則臣請完璧而歸. 旣至秦, 王無意償城. 相如乃欺取璧, 怒髮指冠, 卻立柱下曰: “臣頭與璧俱碎.” 遣從者, 懷璧間行先歸. 身待命於秦, 秦昭王賢而歸之 해석 趙惠文王, 嘗得楚和氏璧. 조나라 혜문왕은 일찍이 초나라 화씨의 구슬을 얻었다. 秦昭王, 請以十五城易之. 진나라 소양왕이 15개 성으로 구슬을 바꾸자고 청했다. 欲不與畏秦强, 欲與恐見欺. 15개의 성을 주지 않자니 진나라가 강한 게 두렵고, 주자니 속임을 당할까 두려웠다. 藺相如願奉璧往, 이때 인상여가 구슬을 가지고 진나라에 가길 원하며 말했다. 城不入則臣請完璧而歸. “15개의 성을 주지..